三国志の時代は、戦乱の時代であり、大小の戦闘の度に戦死者が出ました。しかし、歴史は、これら戦死者がその後、どうなるかを伝えてはくれません。
そこで『はじめての三国志』では、戦死した兵士が、その後どのような手続きを経て、埋葬されるのかを、簡単ではありますが解説しようと思います。
この記事の目次
戦死すると仮の柩、槥を与えられる
後漢の時代の律令では、戦争に従軍している兵士が戦病死すると戦死したその土地で槥(えい)と呼ばれる仮の棺が造られ与えられました。そして、戦死者は槥に入れられ、麻で出来た上着を一枚、麻の股引を一枚、最後には、頭に巻く白い麻の手ぬぐい一本を身につけさせます。
これは、当時の死装束であくまで仮のものです。それ以外の、兵士が生前使用していたあわせの長衣やズボン、武器の類は国庫に回収され、次に補充される兵士に支給される事になります。自分の持っている武器が、前に死んだ兵士のモノだと考えると、なんだか嫌ですが、さすがに武器まで埋葬に供する余裕は無かったようです。
槥車は、兵士の故郷まで何千里と旅をする
こうして、槥に入れられた戦死者は、車に乗せられて、自分の故郷まで、はるばる旅をする事になります。
これは後漢の初期の話なので、三国時代の動乱の世ではどこまで守られたかわからないではありますが、中国人は死体を可能な限り故郷に帰そうとするので、壊滅的な負け戦でない限りは、三国志の時代でも槥車が故郷に向かう葬列は見る事が出来たことと思います。
漢書の韓安国(かんあんこく)伝には、「槥車が道にひきもきらずに相望まれた」という記述がある事から、大戦争が起きた後には槥車が連なって、道を行く光景が見られた事でしょう。
故郷に帰った所で正式な棺と葬衣が支給される
こうして、故郷に無言の帰宅をした兵の槥車から兵は下ろされ、政府から支給される正式な棺と葬式用の葬衣を与えられ、初めて埋葬される事になるという事です。
戦死者に大きな手柄があれば、お金が支給されたり、高価な絹や肉などの物品が報償として与えられる事もありました。それらの措置は純粋な労いでもありますが、ある程度の報償を行い民に嫌戦気分を起こさせない為にも必要な部分もあったでしょう。
庶民の葬儀は簡単なものだった
死者が大貴族なら、壮大な柩のパレードを行い葬列が何百人も連なりますし墓も丘を模したような墳墓ですが、庶民ではそういう事は出来ません。
※当時の埋葬について詳しくは↓
当時の社会は、土葬なので、適当な共同墓地に土地を買い、そこに死者を埋葬して、土を盛って目印にしたのだと思います。寂しい話ですが、それでも死体が無事に戻ってくるだけマシで、そのまま戦地に死体が野ざらしという事も興亡の激しい時代なので、多かったでしょう。
槥車を運ぶ人の苦労
戦死した人を乗せた槥車は、もちろん自分で故郷に戻るわけではありません。それらの槥を引っ張って、何千里も離れた故郷に送り届ける人も存在しました。戦争からは免れるのでラッキーではありますが、長い旅路では、山賊や盗賊、慣れない土地での病気など、困難は目白押しでした。
やはり命がけの旅と言って良かったのが死体の運搬者でした。それでも、死体を損壊せず、できるだけ生きた状態に近いコンディションで戦死者を遺族に届けるべく、運搬者は努力したのです。
三国志ライターkawausoの独り言
あまり、語られる事がない、兵士の死後の事について解説しました。他の文明では、遺髪や持ち物の一部を持って帰る、または火葬して、灰になった状態で、遺族の元へ帰すのが普通ですが、戦死者の遺体をそのまま、故郷に帰すのは、今でも大変ですから、当時としても、かなり大変な事だったのではないかと思います。
そして、遺族の思いを乗せて見えない所で奮闘していた死体運搬人の人々の苦労、頭が下がる思いですね。
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