孔明と曹操は相性が抜群?もし孔明が魏に仕えていたら歴史はどうなった?

2016年9月30日


 

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孔明

 

三国志のなかでもとりわけ有名な軍師・諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)。三国志を知らなくても彼の名前は聞いたことがあるという人もたくさんいます。孔明は、荊州で蟄居生活同然の劉備に「三顧の礼」をもって配下に迎えられます。

 

孔明

 

それまでの孔明は片田舎で晴耕雨読の毎日を送っていました。誰にも仕えず、浪人生活を送っていたのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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諸葛亮孔明の出身地

諸葛瑾

 

そもそも孔明は荊州出身ではありません。彼は徐州瑯琊郡の生まれです。早くに父を失い、叔父の諸葛玄に引き取られて育てられました。ちなみに諸葛玄については諸説あります。

 

諸葛玄は豫章郡の太守に任じられましたが(袁術もしくは劉表の独断によるもの)、正式に漢の朝廷から太守に任じられていた朱晧と争って敗れて死んだと云われています。以来、孔明は荊州に住み着くことになるのです。

 

故郷である徐州

孔明 出師

 

西暦197年に諸葛玄は死去しています。つまりその年には孔明は確実に徐州にいなかったことになります。孔明がいつまで徐州にいたのかはよくわかっていません。幼少期に諸葛玄に連れられて揚州の豫章郡に移っています。

 

処刑を下す曹操

 

話が前後しますが、西暦193年4月には徐州で大事件が起こりました。曹操が徐州の牧である陶謙を攻め、大虐殺を行うのです。この年には孔明は12歳です。幼少期とはいえませんので、すでに揚州に移り住んでいたと思われます。

三国志のモブ 反乱

 

徐州の大虐殺は遠くに住む孔明の耳にも届いたことでしょう。幼き頃の知り合いを多数、曹操に無残に殺されて孔明はどう感じたのでしょうか。

 

孔明が魏に仕えることはない

孔明VS曹操

 

以上のことから推測するに、孔明が曹操のもとに仕えることはなかったのではないかと思います。むしろ曹操を倒すことを願っていたことでしょう。だからこそそのライバル的な存在である劉備に手を貸したのではないでしょうか。

 

考える諸葛亮孔明

 

建国の志をまっとうし、執拗に北伐にこだわる孔明をリスペクトする方も大勢いますが、魏を倒すという悲願には少なからず私怨も混じっていたのではないかと私は思います。どんなに貧しい生活を強いられても孔明が魏に仕える可能性はゼロというわけです。

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ろひもと理穂

ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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