三国志のなかでもとりわけ有名な軍師・諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)。三国志を知らなくても彼の名前は聞いたことがあるという人もたくさんいます。孔明は、荊州で蟄居生活同然の劉備に「三顧の礼」をもって配下に迎えられます。
それまでの孔明は片田舎で晴耕雨読の毎日を送っていました。誰にも仕えず、浪人生活を送っていたのです。
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諸葛亮孔明の出身地
そもそも孔明は荊州出身ではありません。彼は徐州瑯琊郡の生まれです。早くに父を失い、叔父の諸葛玄に引き取られて育てられました。ちなみに諸葛玄については諸説あります。
諸葛玄は豫章郡の太守に任じられましたが(袁術もしくは劉表の独断によるもの)、正式に漢の朝廷から太守に任じられていた朱晧と争って敗れて死んだと云われています。以来、孔明は荊州に住み着くことになるのです。
故郷である徐州
西暦197年に諸葛玄は死去しています。つまりその年には孔明は確実に徐州にいなかったことになります。孔明がいつまで徐州にいたのかはよくわかっていません。幼少期に諸葛玄に連れられて揚州の豫章郡に移っています。
話が前後しますが、西暦193年4月には徐州で大事件が起こりました。曹操が徐州の牧である陶謙を攻め、大虐殺を行うのです。この年には孔明は12歳です。幼少期とはいえませんので、すでに揚州に移り住んでいたと思われます。
徐州の大虐殺は遠くに住む孔明の耳にも届いたことでしょう。幼き頃の知り合いを多数、曹操に無残に殺されて孔明はどう感じたのでしょうか。
孔明が魏に仕えることはない
以上のことから推測するに、孔明が曹操のもとに仕えることはなかったのではないかと思います。むしろ曹操を倒すことを願っていたことでしょう。だからこそそのライバル的な存在である劉備に手を貸したのではないでしょうか。
建国の志をまっとうし、執拗に北伐にこだわる孔明をリスペクトする方も大勢いますが、魏を倒すという悲願には少なからず私怨も混じっていたのではないかと私は思います。どんなに貧しい生活を強いられても孔明が魏に仕える可能性はゼロというわけです。
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