秋は美味しい物や季節の風物を求めて、旅行する人が増えますよね?
今の人程、気軽ではないにしても、三国志の時代も旅行をする機会はあった筈、では、三国志の時代の旅行とはどんなものだったのでしょうか?
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三国志の時代、宿屋には二つのタイプがあった。
三国志の時代には宿屋のシステムは大きく分けて二つありました。一つは役人等公務員だけが利用できる施設で都亭、郷亭、伝舎と言いこちらは、亭長のような専任の役人が応接してくれ食事も出ました。
亭長は最下級の役人で治安維持と役人の接待を務めている仕事で、後に天下を獲る漢の高祖、劉邦(りゅうほう)も沛の亭長でした。一方で、民間人が利用する宿は逆旅(げきりょ)と言います。逆は迎えるという意味で、旅人を迎える場所という意味です。こちらは、民間人が営んでいる宿屋でした。
何と食事は自炊、楽しみが半減する三国志の旅
しかし、当時の逆旅は部屋を貸すだけで食事は出ませんでした。逆旅で食事が出るようになるのは、唐から宋の時代の事です。
三国志の時代の旅人は、自炊をするしか方法がありませんでした。鍋や釜は一応、逆旅に備品がありましたが、宿が混んだらレンタルできる保証もないので、自分で持ち歩かないといけません。
つまり当時の旅行者は、歩き疲れて宿屋に入り、さらに食事も自分で造らないといけなかったのです。もちろん、荷物は膨大になり馬車に生活道具一式を詰めて今でいう引っ越しのような状態で旅をしたのです。
食糧や水を持ち歩かないといけない
自炊するという事は、もちろん食材も煮炊きする薪も自前という事になります。荘子には、
百里を行く者は宿に糧を舂(うすつ)き
千里を行く者は、三月の糧を聚(あつ)む
とあり、百里を旅行すれば宿屋で自炊し千里を旅行するなら三か月分の食料を集めないといけないと書いています。
もし、途中で食糧が尽きたり、旅費がつきたら、それこそ悲惨で韓娥(かんが)という人は旅の途中でお金が尽きたので自慢の喉で歌いながら旅をして客からお金を貰って食いつなぎ、孔子(こうし)は陳の国で食糧が尽き従者が立てなくなる程に衰弱しました。
幸い水だけは、街道の途中、途中で休憩の為の井戸が掘られていましたが、食糧は買うか持参して持ってくるしかなく、やはり荷物の量を多くしたでしょう。
手ぶらの楽ちん旅行など、この当時はあり得なかったのです。
通行手形を持っていないと逮捕された
食糧の問題以上に、旅行者を悩ませたのが節伝(旅行券)でした。どのようなものかというと、二枚の絹の中央に文字を書いて、それを旅人と役所が片方ずつ持って照会するという仕組みです。すでに周の時代から節伝は存在していて、これを保有していないと、逆旅に泊る事は出来ず、それどころか保有していない事がバレると不法旅行者と見做され逮捕されて牢獄に送り込まれました。
これは、役人でも同じであったようで、旅の途中で節伝を紛失するとアジャパーな状態になる可能性があったのです。しかし、後漢の時代になると、節伝を持たない人間を当て込んで、これを売る人が出たようです。
どうやら、節伝は旅行が終わっても返す性質のものでもなく個人個人で番号が違うわけでもないので、転売が出来たようです。恐らく、困っている人の弱みに付け込んで法外な値で売ったでしょうから大いに儲かる商売だった事でしょう。
三国志ライターkawausoの独り言
旅行というと、物見遊山でなんだか楽しそうですが、少なくとも、三国志の時代には、そうではなかったようです。何しろ自炊用の荷物と食糧と薪のような燃料を車に積み上げて、三度の食事は自分で用意しなければいけないわけですから、食事が済んだら、バタンキューで観光どころでは無かったでしょう。一方で、役人専用の宿舎に泊れる人は、食事の面倒も炊事道具も要らずかなり楽ちんな旅が出来たでしょうね。本日も三国志の話題をご馳走様です。
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