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これは意外!?三国志時代では戦争の必需品だった短刀

2016年10月6日


 

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陸遜 剣と刀

 

三国志を彩る武器と言えば、戟や矛、剣、弓、長刀、等がありますが、意外に忘れがちなのが短刀です。

 

「え?三国志の武将って、短刀を差しているの?」と思うかも知れませんが、それが実は、ちゃんと差していて、短刀は戦争では重要な役割を果たしていました。はじさんでは、三国志のドラマの見方が少し変わる、短刀について紹介します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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殷の時代まで遡る短刀の起源

殷の大様002

 

中国における短刀の歴史は、紀元前1300年、殷の時代まで遡ります。その当時の短刀は青銅製で、柄の所に動物の頭の飾りがついています。どうやら、殷が傭兵として使っていた遊牧民族系の外人部隊に、殷王朝が、戦争の道具としてもたせたもののようです。

 

進軍する兵士b(モブ用)

 

短刀は、刃渡り20センチ前後、ちゃんと鞘がついていて、ベルトに吊るように工夫されています。映画等では、見えずらいですが、三国志の時代の武将も、短刀はしっかり携帯して戦場に向かっていたのです。

 

護身、自殺、敵の体を切り取るのに不可欠だった短刀

陸遜

 

戦争において、もっとも活躍するのは、矛だったり、戟だったり、剣だったり刀だったりします。しかし、接近戦になり、それらの武器が使い物にならなくなった時、最終的に、自分の身を守ったり、自害するのに使えるのが短刀でした。

 

最後まで戦い抜く張悌(ちょうてい)兵士モブ

 

また、敵と揉み合いになり間合いが取れなくなると、最後には、長い剣や刀より、短い短刀が勝敗を決するのに役立ちます。そして、敵を倒した時には、その敵の耳やら首を確かに相手を倒した証として、持ってかえる風習が中国にはありました。戦果報告以外にも、自宅の廟に殺した敵の首を捧げて、「私は勇敢に戦いました」と先祖に報告するのにも使いました。

 

三国志演義にも出てくる曹操の七星刀

七星剣

 

創作ではありますが、三国志演義では曹操(そうそう)が宝刀の七星刀を餌に董卓(とうたく)に近づき暗殺しようとして失敗してしまう描写があります。これも七星刀が短刀だから出来る事であり、これが長い刀なら、幾ら宝物でも董卓も警戒して気を許さなかったでしょう。このように、短刀には、どこにでも持ち運べる暗殺の為の道具という一面もあります。

 

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短刀は日本では脇差に変化した

源義経 鎌倉時代

 

日本においては、鎌倉時代、短刀は刺刀(さすが)に変化しました。鎌倉武士の基本装備は、薙刀でしたが、乱戦になって薙刀が使えなくなると刺刀を抜いて、勝敗を決したようです。

 

日本戦国時代の鎧(武士・兵士)

 

この刺刀が変化して、戦国時代には脇差が誕生します。脇差も、刺刀と用途は同じですが、フォルムが打ち刀(歩兵用の刀)と同じでただ、長さが短いモノになっていきます。

 

合戦シーン(戦国時代の戦・兵士・モブ)

 

中国の場合と同じく、脇差も白兵戦での組み打ちに使用したり、敵を倒した時に、首を切り落としたりするのに使用しました。少し、珍しい利用法としては、血判状を造る時に朱肉の代わりに脇差の刃を少し出して指先を傷つけて書状につけたりします。

 

太刀や打刀にも負けない由緒ある脇差

光武帝

 

脇差は、太刀以上に、普段から身につけている事から、その装飾にも凝ったものが現れ、現在でも数十本の名刀があり、現在まで伝わる内の何本かは重要文化財に指定されています。日本では、生まれた子供の魔よけとして守り刀を贈る風習もあり短剣が神聖視されていたのです。こうして見ると、昔の人が脇差に特別な思いを込めた理由が、分かるような気がしますね。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

あまり三国志の表舞台では、お目にかかれない短刀、しかし、実際には脇役どころか、白兵戦にかかせなかったり、自害や敵の首や耳を切り離すのに使えたり、とても便利でなくてはならない存在だった事が分かります。こうして、細かい所に注意して見ると、三国志の深さをまた、体験できるかも知れませんね。本日も、三国志の話題をご馳走様でした。

 

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はじめての列子

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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