三国志を彩る武器と言えば、戟や矛、剣、弓、長刀、等がありますが、意外に忘れがちなのが短刀です。
「え?三国志の武将って、短刀を差しているの?」と思うかも知れませんが、それが実は、ちゃんと差していて、短刀は戦争では重要な役割を果たしていました。はじさんでは、三国志のドラマの見方が少し変わる、短刀について紹介します。
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殷の時代まで遡る短刀の起源
中国における短刀の歴史は、紀元前1300年、殷の時代まで遡ります。その当時の短刀は青銅製で、柄の所に動物の頭の飾りがついています。どうやら、殷が傭兵として使っていた遊牧民族系の外人部隊に、殷王朝が、戦争の道具としてもたせたもののようです。
短刀は、刃渡り20センチ前後、ちゃんと鞘がついていて、ベルトに吊るように工夫されています。映画等では、見えずらいですが、三国志の時代の武将も、短刀はしっかり携帯して戦場に向かっていたのです。
護身、自殺、敵の体を切り取るのに不可欠だった短刀
戦争において、もっとも活躍するのは、矛だったり、戟だったり、剣だったり刀だったりします。しかし、接近戦になり、それらの武器が使い物にならなくなった時、最終的に、自分の身を守ったり、自害するのに使えるのが短刀でした。
また、敵と揉み合いになり間合いが取れなくなると、最後には、長い剣や刀より、短い短刀が勝敗を決するのに役立ちます。そして、敵を倒した時には、その敵の耳やら首を確かに相手を倒した証として、持ってかえる風習が中国にはありました。戦果報告以外にも、自宅の廟に殺した敵の首を捧げて、「私は勇敢に戦いました」と先祖に報告するのにも使いました。
三国志演義にも出てくる曹操の七星刀
創作ではありますが、三国志演義では曹操(そうそう)が宝刀の七星刀を餌に董卓(とうたく)に近づき暗殺しようとして失敗してしまう描写があります。これも七星刀が短刀だから出来る事であり、これが長い刀なら、幾ら宝物でも董卓も警戒して気を許さなかったでしょう。このように、短刀には、どこにでも持ち運べる暗殺の為の道具という一面もあります。
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短刀は日本では脇差に変化した
日本においては、鎌倉時代、短刀は刺刀(さすが)に変化しました。鎌倉武士の基本装備は、薙刀でしたが、乱戦になって薙刀が使えなくなると刺刀を抜いて、勝敗を決したようです。
この刺刀が変化して、戦国時代には脇差が誕生します。脇差も、刺刀と用途は同じですが、フォルムが打ち刀(歩兵用の刀)と同じでただ、長さが短いモノになっていきます。
中国の場合と同じく、脇差も白兵戦での組み打ちに使用したり、敵を倒した時に、首を切り落としたりするのに使用しました。少し、珍しい利用法としては、血判状を造る時に朱肉の代わりに脇差の刃を少し出して指先を傷つけて書状につけたりします。
太刀や打刀にも負けない由緒ある脇差
脇差は、太刀以上に、普段から身につけている事から、その装飾にも凝ったものが現れ、現在でも数十本の名刀があり、現在まで伝わる内の何本かは重要文化財に指定されています。日本では、生まれた子供の魔よけとして守り刀を贈る風習もあり短剣が神聖視されていたのです。こうして見ると、昔の人が脇差に特別な思いを込めた理由が、分かるような気がしますね。
三国志ライターkawausoの独り言
あまり三国志の表舞台では、お目にかかれない短刀、しかし、実際には脇役どころか、白兵戦にかかせなかったり、自害や敵の首や耳を切り離すのに使えたり、とても便利でなくてはならない存在だった事が分かります。こうして、細かい所に注意して見ると、三国志の深さをまた、体験できるかも知れませんね。本日も、三国志の話題をご馳走様でした。
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