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李靖が得意とした騎兵運用術
李靖(りせい)は騎兵の運用を得意としており、
その中でも特に得意であった攻撃方法は、
突厥や吐谷渾の戦いで使用していた騎馬による長距離奇襲戦法
(ちょうきょりきしゅうせんぽう)です。
彼は奇襲攻撃を仕掛ける前にまず敵の逃走経路を綿密に調査してから、
敵が使うであろう逃走経路を予測してその場所に伏兵を設置。
その後自ら精鋭騎馬隊を率いて敵に対して、奇襲を敢行。
敵が大混乱をきたして慌てて撤退しているところへ伏兵で攻撃を仕掛け、
追撃軍との挟撃によって殲滅する戦法をとっておりました。
この戦法は国内統一戦ではあまり使うことはありませんでしたが、
突厥(とっけつ)や吐谷渾(とよくこん)などの騎馬主体の遊牧民族との戦い方を研究した結果、
編み出されたものです。
長距離奇襲作戦を用いて、異民族との戦いで連戦連勝
李靖が編み出したこの戦法は遊牧民族達との戦いのおいて非常に有効であり、
この戦法を用いて連戦連勝を重ねていきます。
しかしこの戦法の非常に難しいところは敵の逃走経路を事前に、
察知しておかなければならないところです。
奇襲作戦に成功しても敵の逃走経路の予想が外れてしまえば、
騎馬の扱いに長けている遊牧民族達は一目散に逃走してしまいます。
そのためこの伏兵の設置が奇襲作戦の肝と言える部分なのですが、
李靖は敵の逃走経路の予想を外さずに伏兵と奇襲をかけた部隊との挟撃を外すことなく
成功させます。
なぜ彼は敵の逃走経路を知ることができたのでしょうか。
それは緻密な上に何度も繰り返して、
敵陣と敵が逃げる際の癖を調べ尽くしたからではないでしょうか。
もう一つの理由としては、青年期から読みあさって研究した兵法が、
役に立ったのでないのでしょうか。
彼が読んだ本の中には漢の武帝の時代に匈奴討伐戦で活躍した
衛青(えいせい)などの実績が記されている史書なども当然あったと思われるので、
この本を読んだことで、
遊牧民族の癖を知ることができたことも理由の一つ
として考えられるのではないのでしょうか。
とにもかくにも当時の時代においてこれほど敵の逃走経路に伏兵を置き、
何度も成功した人物は彼一人といっても過言ではありません。
騎兵の運用術は曹操から学ぶ
さて李靖は騎兵の奇襲攻撃を得意としておりましたが、
一体どうやってこの戦法を思いついたのでしょうか。
それは三国志の英雄のひとりである曹操が書いた「魏武註孫子」などの兵法書から
彼の騎兵運用術を学び取ることで、思いついた作戦です。
曹操も鳥桓族討伐戦の時に騎兵を長駆させて、
敵の本陣に切り込むことで鳥桓族の討伐に成功した実績を持っております。
李靖も曹操のこの実績などから騎兵の運用術を学び取り、
突厥討伐戦や吐谷渾討伐戦に応用したのではないのでしょうか。
国内平定戦で使用した陣形は孔明から学び取る
さて国外の戦いである異民族との戦いでは、騎兵を主体とした戦いであったため
曹操の騎兵運用術を用いて戦い抜いております。
しかし歩兵が主体の国内の戦いでは、陣形が非常に重要になってきます。
李靖はこの歩兵の陣形においては、三国時代蜀の名宰相で知られた諸葛孔明から
学び取ったとされております。
彼は歩兵主体の国内統一戦において、六花の陣と言われる陣形を組んで何回か
戦って勝利を収めておりますが、
この「六花の陣」は孔明が使ったことのある「八陣の陣」を応用したものとされております。
ほかにも「孫子の兵法書」を応用した戦い方や呉子などの兵法書を研究したことで、
色々な戦い方を身につけたのでないのでしょうか。
三国志ライター黒田廉の独り言
今回は唐の時代の武将を紹介しました。
李靖はその後も名将として中国で語り継がれる人物ですが、
彼が名将となることができたのは、
三国志の曹操や孔明などの戦法や陣形などを駆使したことなどが原因となっています。
唐の時代に生きた人々にも三国志の影響を受けていたので、
記事を書いていて大いに感慨深い物を感じました。
「今回の唐の時代のお話はこれでおしまいにゃ
じかいもまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃぁまたなにゃ~」
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