謎多き渤海国はどのように建国されたのか? 武則天も渤海国と関係していた?

2022年9月16日


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同年小録(書物・書類)

 

今回は、古代日本とも親交が深ったと伝わる「渤海国(ぼっかいこく)」についてのお話です。どうぞご一読ください。(※「渤海国」と明記したのは、地名の「渤海」と区別するためです。)

 

八甲田雪中行軍遭難事件(雪山)街亭

 

この「渤海国」とは、朝鮮半島北部から中国東北部からロシアのウラジオストク辺りも領土に含めた、7世紀末〜10世紀初めに存在した国と言われています。20世紀になると、「帝国時代(帝国憲法(ていこくけんぽう)明治(めいじ)憲法】時代)の日本」が、その傀儡政権(かいらいせいけん)の「満洲国(まんしゅうこく)」を渤海国の復活と位置づけるという事態がありました。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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韓国、北朝鮮、中国が主張し合う渤海国

洛陽城

 

今世紀では、韓国(かんこく)北朝鮮(きたちょうせん)中国(ちゅうごく)(中華人民共和国)の、それぞれの国が、自身の先祖たちが築き上げた国だと主張し合う状況もあるようです。現在も議論を呼び、未だに決着をみないとも言われています。

 

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渤海国の信頼性の高い説・旧高句麗系

三国志のモブ 反乱

 

信憑性の高い説としては、旧高句麗系(きゅうこうくりけい)や「靺鞨(まっかつ)」(農耕漁労民族と言われる)民族や、「唐帝国(とうていこく)」に滅亡させられた諸々の部族により構成されていた、いわゆる連合王国という認識が合っている印象です。

 

ここで、渤海国の建国期?発展期の流れを簡単に説明します。まず、初代国大祚栄(だいそえい)によって建国され、遊牧民族勢力の「契丹(きったん)」から分離独立します。

 

二代国王・武王(ぶおう)大武芸(だいぶげい)」は領土拡大し、三代国王・文王(ぶんおう)大欽茂(だいきんも)」は対外戦争を避け、文化国家として盤石にしました。その後は、文王の方針を受け継いだか、対外戦争を避ける傾向が目立ち、文化国家として繁栄し、経済的にも豊かさを保ち続けたと伝えられています。国家(新政府)誕生後、初代の王(君主)から三代目の王までに、発展と成熟を迎えるという流れになっていると言えるでしょうか。

 

天下を収めた徳川家康

 

日本史上でも、室町幕府(むろまちばくふ)足利(あしかが)将軍家や江戸(えど)幕府の徳川(とくがわ)将軍家が辿った道も似ているとも言えそうです。さて、それでは、渤海国がどのように建国されたのか?

 

詳しく見ていきましょう。

 

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前史 高句麗を受け継ぐ者たち

 

まずは、建国直前、エピソード0からお話します。7世紀後半のことです。紀元前1世紀〜7世紀後半に存在し、最盛期には朝鮮半島北部から中国東北部にかけて繁栄した王国「高句麗」は滅亡の時を迎えようとしていました。

 

668年、中国王朝の「唐」と朝鮮半島南部にて急速に武力を伸ばしてきた王国「新羅(しらぎ)」が連合し、高句麗を攻撃し、滅亡に追いやります。滅亡時の高句麗の最後の王は、「宝蔵王(ほうぞうおう)」と呼ばれている人物でした。

 

滅亡後の翌年には、「宝蔵王」の外孫の「安勝(あんしょう)」という人物が、「新羅」の支援を受けて唐に反乱を起こし、鎮圧されるという事件がありした。それに続いて、唐に従わない勢力が反乱を各地で起こしたようです。

 

そのような事態に対して、唐は高句麗の最後の王の「宝蔵王」を、遼東半島付近(現在の「遼陽(りょうよう)」や「撫順(ぶじゅん)」)に、【安東都護府(あんとうとごふ)】の管理監督として、名目は「朝鮮王(ちょうせんおう)」として冊封されます。しかし、「宝蔵王」は、近隣の諸民族と組んで反乱を起こしますが、敗北し、四川(しせん)に流され、そこで死去します。(682年頃)

 

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建国の原因は女帝「武則天」だった?

女帝・武則天a(女性)

 

そして、中国王朝の唐帝国では、三代皇帝高宗(こうそう)」が死去して数年後の690年に、その皇后の武后(ぶご)が、女帝に即位します。女帝・武則天(ぶそくてん)の登場です。「唐」の国名が一時的にも廃止され、「武周(ぶしゅう)」王朝と呼ばれるようになりました。

 

すると、「契丹」と言われる半農半牧民族の勢力が武周へ反乱を起こしたのです。中国王朝史上初の女帝が誕生したことで、周辺の遊牧民族たちは、与し易しと反撃の狼煙を上げたと言えるかもしれません。しかも、契丹の軍勢は、幽州(ゆうしゅう)(現在の北京)まで押し寄せてきたのです。

 

女帝・武則天b

 

武周帝国の武則天は、モンゴル高原に勢力を拡大していた遊牧民族の「東突厥(ひがしとっけつ)」(「突厥第ニ帝国(とっけつだいにていこく)」とも呼ばれる)と組み、契丹をほぼ平定させます。しかし、その契丹の残存勢力が登場するのです。

 

そこに、渤海国の初代王となる「大祚栄」が率いる勢力がいたと言われています。大祚栄の勢力は、元々、高句麗遺民として、高句麗滅亡後、「営州(えいしゅう)」(現在の遼寧省(りょうねいしょう)朝陽市(ちょうようし)付近)に強制移住させられていたようです。

 

大祚栄の出自は、旧高句麗の領域内に住んでいた、高句麗系か、それに従属していた「靺鞨」系が混合した部族たちの子孫という見解をもつのが誤解されず無難なようです。契丹勢力の反乱の最中に乗じて、東へと移動し、独立し、建国したのです。

 

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日の出づる国の意味があった?

 

初め、その国は「(しん)」と呼ばれたと伝わっていますが、それは中国王朝側の視点で書かれた歴史書によるものです。また「振」国とも表記されることもあるようです。震(振)は、始まりや再興を意味し、大地の震えは、新たな事が起きる前触れだという感覚があったのかもしれないのです。

 

また、「辰」(龍)にも通じる字です。龍は、中国王朝の皇帝の象徴ともされてきた歴史があります。さらに、「辰」を十二支の方角で置き換えると「東南東」(ざっくりと言うなら東の方角)を指します。そこから「(あかつき)」の意味もあるとも言われています。

 

つまり、東の方から日が昇るという意味での「あかつき」です。それは、「日本」の国号の由縁として、(アジア大陸から見て)日が昇る東の方角にある、日ノ本の国で、「日の出づる処」にある国と言われてきたのと似ている印象です。

 

ということは、明るいプラスイメージになるので、「震(振)」の国名を、大祚栄自身が積極的に使うことを受け入れていたのかもしれないですね。

 

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遊牧民族帝国 VS 武周帝国の抗争に乗じて勢力伸ばしたか

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さて、契丹の反乱がいったん収束すると、一時的に連携していた「武周帝国」と「東突厥(突厥第二帝国)」の間に亀裂が入り、衝突が起こります。大祚栄は、建国後、武周帝国と東突厥の対立のときは、東突厥に接近します。

 

さらに、中国東北方面(満洲(まんしゅう)と呼ばれた地域)の諸勢力(靺鞨系の部族)も東突厥と組んだと言われています。

 

そうなると武周側は劣勢に立たされたのです。こういった事情もあって、武周帝国の武則天は、大祚栄の国を含めて、中国東北方面(特に「旅順(りょじゅん)」より東北)を鎮圧することを諦めざる得なくなったということなのです。(703年頃のことでした。)

 

これにより、大祚栄の独立国家は存在感を増すのです。また、この争乱で幾度も敗北してしまった武則天は、多くの家臣たちから信頼を失う結果となってしまったと言えるでしょうか。

 

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唐の復活と渤海国の誕生

 

705年に武則天が亡くなり、唐の国号が復活し、「中宗(ちゅうそう)」(唐の高宗と武則天の息子)が再度即位します。中宗は、大祚栄に唐への帰属を促し、友好関係を保とうと迫ってきます。すると、大祚栄はそれに応える形で、息子の一人「門芸」を人質として送り、皇帝の護衛の兵士として宮廷へ仕えさせるのです。

 

玄宗皇帝

 

712年になると、唐では「李隆基(りりゅうき)」が皇帝に即位します。「玄宗(げんそう)」皇帝の登場です。翌年の713年、大祚栄は、その唐の玄宗により、「渤海郡王」として認められます。このときに「渤海国」が誕生したのです。

 

ただ、この玄宗皇帝による処置は、渤海国に対する好意というよりは、周辺国への危機意識からくるものだったのでしょう。つまり、当時、中国北部のモンゴル高原付近で大勢力を築いていた「東突厥(突厥第ニ帝国)」の脅威があり、そのための対抗処置として、その周辺国家とは友好を保とうとしたと考えられています。

 

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おわりに

コーノ・ヒロ(はじめての三国志ライター)

 

それでは次回は、二代目の武王「大武芸」、三代目の文王「大欽茂」の、渤海国の発展期についてお話します。お楽しみに。

 

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【主要参考文献】

・『渤海国の謎』

上田雄(うえだたけし) 著 / 講談社現代新書)

 

・『渤海国とは何か (歴史文化ライブラリー)』

古畑徹(ふるはたとおる) 著 / 吉川弘文館 )

 

・『隋唐帝国』

布目潮渢(ぬのめちょうふう)栗原益男(くりはらますお) 著 ・講談社学術文庫)

 

 

 

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コーノ・ヒロ

歴史好きのライターです。 福祉関係の仕事をしつつ、物書きの仕事も色々としています。 小説や詩なども、ときどき書いています。 よろしくお願いします。 好きな歴史人物 墨子、孫子、達磨、千利休、良寛、正岡子規、 モーツァルト、ドストエフスキー など 何か一言 歴史は、不動の物でなく、 時代の潮流に流される物であると思っています。 それと共に、多くの物語が生まれ、楽しませてくれます。

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