歴史書と説話で描かれるボーディセーナの本当の姿は黒子役に徹した(菩提僊那ボダイセンナ)だった?

2022年9月7日


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編集長日記05 コーノさん、廉さん

 

こんにちは。古代史ライターのコーノヒロです。今回は、奈良時代に来日した南インド出身の渡来僧のボーディセーナが、物語の中で、どのように描かれているかを解説していきます。どうぞお付き合いください。

 

まずは、『続日本紀(しょくにほんぎ)』と『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』の2作品から解説していきます。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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歴史書と説話で描かれるボーディセーナの姿は?

同年小録(書物・書類)

 

①まず、日本史の中で長きに渡り、歴史書とされてきた『続日本紀』です。これは、『日本書紀』の続編の歴史書とされていますが、ここでは、ボーディセーナが3箇所に登場します。

 

前回記事

ボーディセーナ(菩提僊那)
菩提僊那(ボーディセーナ)が登場する物語は?古典文学作品に登場するボーディセーナを網羅する

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大和朝廷

 

 

歴史書とされてきた『続日本紀』のボーディセーナ

幕末70-8_天皇(シルエット)

 

1箇所目は、来日直後、当時の帝の「聖武天皇(しょうむてんのう)」より、衣服の施しを受けるとの記述です(736年)。

 

2箇所目は、東大寺の大仏完成の前年(751年)に「僧正」(日本国内の僧侶に与えられる最高位の官職の一つ)に任命されるという記述があります。

 

最後の3箇所目は、758年に、女帝・孝謙天皇(こうけんてんのう)が天皇の位を譲位し、政界から一度は退き「上皇」の地位になられたとき、ボーディセーナが、上皇へ奏上する発言が記されています。

 

その内容を簡単に書きますと、皇位を譲ったばかりの孝謙上皇と光明皇太后(こうみょうこうごう)(孝謙上皇の母)への賛美の言葉に満ちています。つまりは、「孝謙上皇」を、聖人の存在に到達した上で、天下を上手く治めていると、賞賛し「光明皇太后」を、仏教の道である「仏道」を正しく歩み、「阿羅漢(あらかん)」(※悟りを開いた存在。仏陀(ぶっだ))になられたと、賞賛しきりの内容なのです。

 

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日本文学史上最大の仏教説話集『今昔物語集』に登場するボーディセーナ

 

②次は、日本文学史上最大の仏教説話集『今昔物語集』です。ボーディセーナ登場する章は一つあります。「巻十一 本朝仏法部 ・第七 ・婆羅門僧正(ばらもんそうじょう)行基(ぎょうき)にあはむがために天竺(てんじく)より来朝したる語」という章です。

 

ボーディセーナが、生まれ故郷の南インドから日本へ渡ってきた時の、絵になるような場面が描写されています。

 

東大寺の大仏造営中の時のこと、完成時の催し(開眼供養のイベント)には、必ず、それに相応しい講師が外の国からやってくると、僧侶の「行基」が「聖武天皇」に話しています。行基も含めて百人にもなるお迎えが、難波津(なにわのつ)の港にて待っていると、ボーディセーナが船に乗ってやってくるのです。

 

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行基とボーディセーナの出会い

ボーディセーナ(菩提僊那)

 

行基とボーディセーナは、会ったその瞬間から、旧知の仲だったかのように話しこみ、和歌(短歌)を詠み合うという場面が描かれています。

 

行基は、靈山(りょうぜん)(※1)の釈迦のお前にちぎりてし眞如(しんにょ)(※2)朽ちせず相見つるかな

(※1靈山=霊鷲山(りょうじゅせん)=仏道の先駆者の「釈迦」が説教された場所とされる。)

(※2眞如=真如=永遠不変の真理)

 

という歌を詠み、ボーディセーナは返歌として、

 

迦毘羅衞(からびえ)(※3)にともにちぎりしかひありて文殊(もんじゅ)(※4)のみかほ相見つるかな

(※3迦毘羅衞=釈迦の生まれ故郷の国とされる。)

(※4文殊=知恵を司る仏道修行僧)

という歌を返しています。

 

この歌のやり取りの要旨は、と言いますと、ボーディセーナが故郷の南インドに居るときに、ある貴人に、偉大なる知恵者の行基に会うことを予言され、行基もボーディセーナが来日することが分かっていて、約束通りに会えたことを、互いに喜び合うという内容です。

 

さらに、このことを知った民衆は、行基を、「文殊菩薩(大乗仏教(だいじょうぶっきょう)では、知恵を司る修行僧)」と讃えたというのです。

 

以上のことから言えるのは、『続日本紀』では、孝謙天皇(上皇)と光明皇后(皇太后)を讃え、『今昔物語集』では、行基を讃えるという、引き立て役の存在として、つまりは、黒子役としてボーディセーナが描かれていることです。

 

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映像作品「大仏開眼」の中でのボーディセーナは?

 

最後に、実は、映像作品にもボーディセーナが登場していることが確認できましたので、ご紹介します。それは、NHKの古代史ドラマ『大仏開眼(だいぶつかいげん)』(2010年放送)です。

 

 

その中で、752年の大仏完成時の、所謂「大仏開眼供養会(くようえ)」と呼ばれる儀式が描かれていますが、そこにボーディセーナが導師として登場します。

 

大仏の目の一点を筆で黒く塗る(これは、大仏の眼を開かせるという、「入魂一滴」の意味合いの儀式ですが)、それを行ったボーディセーナを描いているのです。一瞬と言える、一場面に過ぎず、台詞もないのですが、ドラマの中に確実に登場しています。こちらでも、黒子役に徹している印象です。

 

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ボーディセーナの記録が少ない理由は?

同年小録(書物・書類)

 

現時点(2022年1月時点)では、ボーディセーナは、江戸時代までは、伝記・物語や和歌には頻繁に登場したようですが、現代(特に明治時代以降)では、取り上げられなくなった印象が強いです。また、真実を伝える歴史資料は少ないようです。

 

西遊記 三蔵法師

 

それは、ボーディセーナの直弟子「修栄(しゅうえい)」が書いたとされ、現存するのは平安時代の僧侶「性空(しょうくう)」が書写したとされる、『南天竺婆羅門僧正碑并序』くらいなのです。

 

水月観音像(仏像)

 

これはどういうことかと考えてみますと、ボーディセーナの人柄が、元々の仏教(仏道)、つまり「ブッダの教え」に忠実な姿勢だったからではないかと推測できるのです。

 

それは、自分を目立たせないように謙虚だったということです。それ故、ボーディセーナ自身が、後世に、意図的に多くを残させないようにしたのではないかと考えられるのです。

 

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おわりに

コーノヒロさん(はじめての三国志ライター)

 

このように、謎の多いボーディセーナですが、その時代の国際情勢を調べることで明らかになってくることもありそうです。次回は、何故、ボーディセーナは日本へ来たのか?について推測していきたいと思います。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

当時、「大唐帝国」と言われるほどにアジアの広範囲に領土を築いていた、中国大陸の「唐王朝」。その都「長安」の近くに滞在していたボーディセーナが、わざわざ日本へ来たのはどうしてなのか?について探っていきます。

 

玄宗皇帝

 

当時の唐王朝は、玄宗皇帝(げんそうこうてい)の時代ですが、その宮廷内の政情も絡んでくると考えられるのです。お楽しみに。

 

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【主要参考文献】

・日本の名著2『聖徳太子(しょうとくたいし)』/「婆羅門僧正碑文」の章

中村元(なかむらはじめ)[責任編集]・中央公論社)

 

・『続日本紀(上)・(中)』

宇治谷孟(うじたにつとむ) 著・講談社学術文庫)

 

・『今昔物語集 本朝仏法部 上巻』

佐藤謙三(さとうけんぞう) 校注・角川ソフィア文庫)

 

・古代史ドラマスペシャル『大仏開眼』

(NHKドラマ・2010年放送)

 

・『南方仏教基本聖典』

(ウ・ウェープッラ 著・中山書房仏書林)

など

 

 

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コーノ・ヒロ

コーノ・ヒロ

歴史好きのライターです。 福祉関係の仕事をしつつ、物書きの仕事も色々としています。 小説や詩なども、ときどき書いています。 よろしくお願いします。 好きな歴史人物 墨子、孫子、達磨、千利休、良寛、正岡子規、 モーツァルト、ドストエフスキー など 何か一言 歴史は、不動の物でなく、 時代の潮流に流される物であると思っています。 それと共に、多くの物語が生まれ、楽しませてくれます。

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