戦争には莫大な金がかかるというのは誰でも納得できる事でしょう。
兵法家の孫武(そんぶ)も、軽戦車を千台、重戦車を千台、鎧武者十万人を用意して、
千里先に食糧を運搬する時は、諸々の経費を入れて一日千金を費やす。
などと書いていて、戦争が長引く事をきつく戒めています。
さて、規模も最大で戦争期間も長かった五丈原の戦いでは孔明は、
幾らの大金を費やしたのでしょうか?
孔明の北伐ルートを考えてみる・・
西暦234年、第四次北伐から3年の期間を置いて
蜀の丞相、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)は
同年、二月に最期の北伐へと出発しています。
漢中から出発した孔明と十万の軍勢は、褒斜道を通過し五月、五丈原に到達。
渭水の沿岸に屯田兵を置き長期戦に備えています。
司馬懿(しばい)も渭水を挟んで南へ砦を築いて蜀軍と対峙しました。
五丈原ですが、現在の地図で調べてみると陝西省 漢中市から、
陝西省 宝鶏市 岐山県 五丈原鎮までが直線で228キロメートルあります。
当時の輸送車の一日の進軍距離は一説では8キロという低速なので、
毎日行軍しても、五丈原までには28日が掛る事になります。
すると、五丈原まで100日余り掛っている蜀軍は、
どこかで道草を食っていた筈で最初は祇山にいたという話もありますが
その詮索は面倒くさいのでしません、単純に五丈原まで3カ月、
100日かかったという事をカウントします。
当時の兵士の食べた食糧
さて、次に当時の兵士の一日の食料を計算してみます。
人間が一日に食べる米は二・五合だそうです。
こちらはグラム換算だと375グラムという事になります。
単純に、兵士一人、100日分の米を換算すると22・5キロです。
次に、同じように従軍した兵力10万人を換算しています。
蜀軍の兵力は、数万から十万ですが、「晋書宣帝紀」の記述を採用し
兵力十万を採用しようと思います。
22・5キロ×100、000名=22500トンです。
こちらを米俵(60キロ)に換算すると実に347、000俵にもなります。
途方もない量である事が数字にすると分りますね。
孔明は、五月から八月の末まで司馬懿と睨みあいをして、
ここでも100日を費やし、やがて病を得て陣中に没します。
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五丈原の戦いの費用、現在の金額に換算すると○○○円!
実際には、戦争に掛る経費は贈答品であったり陣地構築の費用だったり
煮炊きする為の薪だったり、鎧や武器の修理、製造だったりと
もっと掛るのですが、そこは概数の出しようもないのでスルーして
あくまでも兵糧の経費だけを現在の金額に換算してみます。
現在、お米1キロの値段を400円と算定して1トンの価格を出すと
40万円になります。
そこで1トン(40万円)×22500トンで計算してみると、
あくまで五丈原に到着するまでの三カ月の間の話ですが、
ざっと、88億2000万円かかる計算になります。
蜀軍は、孔明が死ぬと、大量の物資を遺棄して退却していますが、
全ての物資を捨てたわけではなく、漢中に戻るまでの兵糧は持ったでしょう。
屯田をしたり、祇山で麦を刈り取ったりもしたと思うので司馬懿と対陣していた
100日と帰還する28日分の兵糧はカウントに入れない事にします。
なんか緩いあやふやな計算ですみません・・
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三国志ライターkawausoの独り言
最初に孫武の言葉に軽戦車千輌、重戦車千輌、鎧武者十万人で
千里の先まで物資を輸送すると一日千金掛ると言っていますが、
現在の金の価値で考えると、千金は27億円になるようです。
これだと、五丈原の戦いは三千金掛った事になりますが、
兵糧以外の諸々の費用を考えると戦費は百億円を越えたかも
知れませんね。
単純に五度の北伐と考えると、五倍で500億円、、
小さな益州1国で、これだけの負担を出したのでは、
そりゃあ、毎年財政は火の車になるでしょうね・・
本日も三国志の話題をご馳走様でした。
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