とっても地味な孫権の息子達7名を一挙紹介

2016年11月3日


 

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孫権

 

三国一、マイナーな地位に甘んじている呉の大黒柱、孫権(そんけん)

ましてや、その息子達となると、そのマイナー度は急激にアップします。

曹操(そうそう)には曹丕(そうひ)劉備(りゅうび)には

劉禅(りゅうぜん)、では孫権には?と言われても、

 

「あれ?誰だっけ、家臣の目をくりぬいたり、皮を剥いだ暴君」と名前も出てこず、

そもそも、それは孫の孫皓(そんこう)という事まで暫く気がつかないでしょう。

そこで、はじさんでは、知名度がない孫権の息子達を一挙紹介します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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孫権の息子 1  謙虚で聡明だったが、若死にした 孫登

 

孫登子高(209~241年:そんとう・しこう)は孫権の長男ですが、

生母の身分が低い事から、当初は皇位継承圏外でした。

しかし、孫登自身は、謙虚で聡明な人柄であったので、

次第に人望を集め孫権も後継者として考えるようになります。

 

西暦221年、孫権が呉王になると、東中郎将の官位を与えられ、

万戸侯に封じられますが、それを病気と称して辞退しています。

それが好印象だったのか、同年のうちに太子に立てられました。

 

諸葛恪の栄光と破滅

 

勢い、孫登の周辺には、優れた若者が集められます。

その中には、諸葛恪(しょかつかく)張休(ちょうきゅう)顧譚(こたん)

陳表(ちんひょう)という後の時代の呉の重臣が多くいました。

 

孫登は、ちっとも偉ぶらず、学友と身分を超えた親密さで付き合い

同じ車で移動し、寝食まで共にしました。

学友の陳表達が、中庶子という役職に任命されると君臣の礼だからと

態度がよそよそしくなった事があります。

 

それを孫登は不満に思い、礼儀に捉われ過ぎであるとして、

陳表達に頭巾を脱がせたという話が伝わっています。

 

西暦234年には、合肥に遠征した孫権に代わり建業を任され、

すぐれた統治能力を見せて、将来を期待されますが、

241年、33歳の若さでこの世を去りました。

彼が順調に生きていれば、43歳で孫権の死があり、

安定感のある確かな手腕で呉を引き継げたのに残念な事です。

 



孫権の息子 2 孫権に溺愛された次男 孫慮

 

孫慮子智(213~232:そんりょ・しち)は、孫権の次男です。

生母が誰か不明ですが、若い頃から聡明で孫権に可愛がられました。

少年時代の孫慮は闘鴨に熱中し、柵の中で多くの鴨を飼育して学問を

おろそかにしていた事があります。

 

陸遜

 

教育係だった陸遜(りくそん)はそれを見て注意すると

孫慮はすぐに柵を取り壊し、鴨を放って未練を断ち学問をするようになります。

孫慮は若く軽はずみな所がありましたが諫言や助言には

素直に耳を傾ける誠実さがあったので、次第に頭角を表します。

 

230年には顧雍(こよう)により王に推され孫権は拒否しますが、

孫慮が鎮軍大将軍府を九江に開くのを認めます。

九江は孫慮により上手く統治され、彼は株を上げる事になります。

孫権の溺愛は長男の孫登を上回り対抗馬と目されますが、

232年正月、僅か20歳の若さで世を去りました。

 

孫権の嘆きは大変なもので、食事も喉を通らない有様だったようです。

 

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孫権の息子 3 二宮の乱で人生が狂った 孫和

孫和

 

孫和子孝(224~253;そんか・しこう)は、孫権の三男です。

母の王氏は孫権の寵愛を受け、その影響で孫和も大事にされます。

14歳の時、直属の兵士と官僚がつけられ、騎馬や弓矢を好んだ他に

学問にも励んで、声望がある人物と接して鄭重に遇していました。

 

文学に秀でた孫和

 

皇太子であった異母兄の孫登と仲が良く、親しく交流していたようで、

241年、孫登が死ぬ時には、孫和を皇太子にしてくれるように

孫権に遺書を残している程でした。

 

その事もあってか、翌年には19歳で孫権の皇太子に立てられます。

孫和の教育係として闞沢(かんたく)、薛綜(せっそう)が付けられ、

友人として蔡潁(さいえい)張純(ちょうじゅん)、封甫(ふうほ)、

厳維(げんい)、鍾離牧(しょうりぼく)という学友が割り当てられます。

 

孫魯班の孫権への讒言で運命が狂い始める・・

孫権

 

孫和が皇太子になった事で、郡臣は孫和の母である王夫人を皇后に立てるように

上奏がありましたが、その気がない孫権はこれを拒否しました。

 

ところが、これで孫和を恨んだ人物がいました、異母姉の孫魯班(そん・ろはん)です。

孫魯班の母は歩(ほ)夫人で、孫権の寵愛を受け事実上の皇后の扱いでしたが、

先の皇太子である孫登は育ての母である徐夫人を皇后に推していました。

孫魯班は、歩夫人を皇后に推し、徐夫人を妨害しましたが、結局、

歩皇后は生前、孫権の皇后にはなれず、徐夫人もなれませんでした。

 

これだけだと、孫和と接点はありませんが、孫登と孫和は仲が良く

「孫和は孫登に吹きこまれて、自分を恨んでいるのではないか?」

孫魯班は考え、やられる前に讒言して追い落とそうと画策するようになります。

 

ある時、孫権が病気になると、孫和は皇太子として、廟で病気の回復を祈ります。

しかし、その途中、孫和が妻の父である張休(ちょうきゅう)に招かれ、

一時、廟から離れたという噂が孫魯班の耳に入ります。

 

それを聞いた孫魯班は噂の真偽も確認せずに、孫権に面会に行き

 

「皇太子の孫和は、父上の病気の回復も願わず、妻の実家の張休と

なにやら謀反の謀議をしているようです。

それに、生母の王氏も、父上が病気になったのを喜んでいます」

 

と出鱈目な報告をしますが、孫権はボケていたのか、

病気で弱気になっていたのか、孫魯班の讒言を信じてしまうのです。

 

孫権は王夫人も孫和も遠ざけるようになり、

王夫人は無実の罪に苦しみ悶死するという最後を遂げます。

 

その後、孫権は孫和の弟である孫覇(そんは)を寵愛するようになり、

呉の重臣達は、孫和派、孫覇派に別れて激しく争います。

これが二宮の変です。

 

孫権は両派の対立に疲れ、かつキレ、西暦250年、末っ子の孫亮を

皇太子にして、孫和を幽閉し、孫覇には自害を命じました。

この後、孫和は復権する事がないまま諸葛恪(しょかつかく)を誅殺した

孫峻(そんしゅん)によって253年、自殺を強要され、

妻と共に自害します30歳でした。

 

こんな目にあっても、孫和は父、孫権を愛していたようで、

孫権が247年に魏の諸葛誕(しょかつたん)をおびき寄せて倒そうと軍を率いた時、

「危険だから、止めて下さい」と心配する手紙を送ります。

 

その後、孫権が無事に帰ると、孫和は心から安心したそうです。

嗚呼、子の心、親知らず、孫魯班の、たった一つの讒言から

孫和の輝かしい人生は狂ってしまったのです。

 

※孫家をグシャグシャにした悪女、孫魯班についてはこの記事をclick↓

 

 

孫権の息子 4 兄を追い落とそうとし自らの死を招く 孫覇

孫覇

 

孫覇子威(?~250年:そんは・しい)は孫権の四男で、母は謝姫です。

これと言う記述がないので、平凡な人物だったようですが、242年、

兄の孫和が皇太子に立てられた折りに、弟である孫覇は魯(ろ)王になりました。

 

孫権に気に入られる孫覇

 

このままいけば、皇帝の弟として、それなりの人生だったでしょうが、

孫和と孫魯班の後継者を巡る対立が孫覇を巻きこむ事になります。

 

孫魯班の讒言(詳しくは孫和の項を参照)により、

孫和と生母の王夫人が孫権に疎まれるようになると孫権の関心は、

孫覇に向かっていきます。

 

孫権は、孫和と孫覇を同じ宮殿に住まわせ、同程度の待遇にしたので

次第に、孫覇が皇太子として期待されているという情報が呉の家臣達に

流れていき、孫覇派が形成されるようになります。

 

丞相の陸遜(りくそん)は諫言して、

 

「兄弟でも皇太子と王では格が違うので君臣の別をつけさせるべき」

 

と孫権に言い、孫権は、それならと二人に別々の宮殿を造営します。

 

しかし、返ってこれが、両者の派閥を集まりやすくしてしまい、

抗争は激化していきました。

 

孫覇派には、楊竺(ようじく)、全寄(ぜんき)、孫奇(そんき)、

呉安(ごあん)といった最初からの取り巻きや、孫和を讒言した孫魯班、

さらに歩騭(ほしつ:歩夫人の一族)、呂岱(りょたい)、

全琮(ぜんそう:孫魯班の夫)、呂拠(りょきょ)、孫弘(そんこう)という

顔ぶれが並んでいて、

 

一方の孫和派には、陸遜、諸葛恪、顧譚、吾粲(ごさん)、

朱拠(しょきょ)、滕胤(とういん)、朱積(しゅせき:朱然の子)

丁密(ていみつ)という面々がいました。

 

呉が二分された二宮の変で孫覇の運命も暗転する・・

陸遜

 

孫覇派は、陸遜や諸葛恪のようなビッグネームを追い落とすべく、

孫権に讒言をかさね、孫和派の重臣を中傷しました。

その中には孫覇本人も混じっていたと言われます。

 

孫覇の守役であった是儀(ぜぎ)は何度か孫覇に諫言し、

「こんなバカな事は辞めるように」と懇願しますが、

 

孫覇「ここまでやって退いた所で、もはや兄上は私を許すまい、、

毒を食えば皿までじゃ、、兄上を追い落とし、

私が皇太子になる以外に生き残る道はないのだ!!」

 

孫覇はこう言い諫言を黙殺しました。

 

孫覇派の讒言はボケていた孫権には効果があり、吾粲は死罪、陸遜の甥、

顧譚は流刑に追い込まれます、その精神的ショックに加えて陸遜は、

孫権から詰問の手紙を何通も送りつけられ、悔しさから憤死。

孫和の外戚である張休も、流刑の憂き目にあい自殺に追い込まれます。

 

一方で孫覇派の歩騭が丞相になるなど、孫覇派は有利になりますが、

まだ、孫和派には諸葛恪や朱拠が存在したので、孫権は孫覇を

皇太子につける決断には踏み切れませんでした。

 

その間に、孫魯班の夫の全琮が死去、そして、歩騭も死去して、

孫覇派の勢力は衰えて、孫和派と膠着状態になります。

 

両者の抗争に呆れた孫権は、西暦250年、自分の末の子である

孫亮(そんりょう)を皇太子にし、喧嘩両成敗として、孫和を幽閉、

孫覇には自殺を命じます、孫覇は、失意の中で自殺、孫覇派の楊竺、

全寄、孫奇、呉安も孫権に誅殺されました。

 

孫和も、かなり不幸ですが、巻きこまれる形で後継者争いに

参加せざる得なくなった孫覇も不幸です。

本来は平凡な履歴で、皇太子を目指す器でも無さそうなのに・・・

 

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孫権の息子 5 不良王族を襲ったデマの恐怖 孫奮

 

孫奮子揚(?~270:そんふん・しよう)は孫権の五番目の子です。

これまでの優秀な兄達と違い、孫権の晩年の子である為か、甘やかされて育ち

素行が悪く呂岱(りょたい)の補佐を受けていましたが、評判は悪いものでした。

 

西暦252年、弟の孫亮が即位し、孫奮は斉王に封じられ武昌に住みます。

やがて、幼少の弟に代わり、諸葛恪が政治の実権を握ると、

王族が領地の要衝に住むのは謀反を起こされ危険として、孫奮にも、

豫章へ移るように命令が行きます。

 

孫奮「なにを偉そうに、俺は王族だぞ!諸葛恪ごときの命令に従えるか」

そうして、孫奮は命令を拒否しますが、諸葛恪は孫奮の命令無視を批難し

同時に、孫奮のこれまでの悪行を公にすると脅してきたので、

孫奮はこれを恐れ南昌に移りました。

 

253年、諸葛恪は、独断専行の度合いを強めた事、魏との戦いで、

大敗した事で人望を失い、王族の孫峻(そんしゅん)に誅殺されます。

 

それを知った孫奮、今度は俺が皇帝とばかりに、無断で南昌を出て、

蕪湖(むこ)に移動して船で建業に出ようとしますが、

部下の謝慈(しゃじ)が諌めたのでこれを邪魔に思い殺害します。

 

しかし、政権は孫峻が孫亮をがっちり補佐して

動かず、孫奮は謀反の嫌疑を掛けられて庶民に落されます。

西暦258年、しょんぼり暮らしていた所を孫亮からの恩赦を受けて、

章安侯に封じられて返り咲きました。

 

その後、孫亮は孫峻の死後に跡を継いだ孫綝(そんちん)を排除しようとして

失敗し帝位を追われ3代皇帝として孫休(そんきゅう)が据えられます。

 

孫休は孫綝を騙して誅殺し実験を握り皇帝権力が安定しますが

長くは続かず264年に崩御、皇帝には4代孫皓(そんこう)が即位します。

これが、お馴染みの暴君、孫皓で呉の最後の皇帝です。

 

西暦270年、孫皓はお気に入りの左夫人、王氏を失い、

悲しみにくれ政務を放棄して宮殿に籠りました。

 

その時、孫皓死亡説が流れ、一部の人々はそれを信じて次に即位するのは、

孫奮か、孫奉(そんほう)であろうという噂が流れます。

孫皓は、政務に復帰して、孫奮と孫奉が皇帝の地位を狙っている

というデマを聞いて激怒し両者を誅殺しました。

 

今回、孫奮は別に動いてもいないのに、デマによって命を失うという

なんとも気の毒な最後でした。

 

孫権の息子 6 幼くして即位し後見人に権力を振われた 孫亮

孫権の跡継ぎ9歳の孫亮

 

孫亮子明(243~260:そんりょう・しめい)は、孫権の七男で

末っ子にあたります、本来であれば、皇帝には縁遠い立場でした。

 

しかし、兄である、孫和、孫覇が孫権の優柔不断により、

皇位を巡り対立、それに呉の重臣が、どちらかを担いで争う

二宮の変が起き、混乱に飽きた孫権が、孫和と孫覇を皇位継承者から排除し、

西暦250年に末っ子の孫亮を皇太子に任命します。

さらに、孫亮の生母の潘(はん)夫人を孫権は皇后に立てて、

名実共に、孫亮が皇太子になる公算が高くなりました。

 

252年には、孫権が崩御し、孫亮は8歳で2代皇帝になります。

しかし、母の藩夫人は孫権の看病疲れで寝入っている間に暗殺され、

幼い孫亮は皇帝になったが故の悲劇に襲われます。

 

即位した孫亮ですが、もちろん、8歳の少年に政治は出来ません。

孫権は、重臣、諸葛恪を後見人にしていましたが、

諸葛恪は、元々、驕慢な性格であり、すぐに自分勝手な振る舞いをして

独裁権力を振うようになります。

 

それに反感を抱いたのが孫峻でした。

孫峻は、諸葛恪が合肥新城の戦いで魏に敗れて求心力が低下した時を狙い

西暦253年10月、大饗の礼でクーデターを起こし諸葛恪一派を粛清します。

しかし、政権は孫亮には戻らず、ただ独裁が諸葛恪から孫峻に移っただけでした。

 

その後も孫峻の専横は続き、何度か反孫峻派によるクーデターが起きますが失敗、

西暦256年、9月、孫峻は魏への侵攻軍を起こしている最中に急死します。

伝聞では、孫峻は夢で諸葛恪に殴られ、その後まもなく死んだと言います。

妖怪ハンター諸葛恪の時空を超えた仕業だったのでしょうか?

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孫峻は死の直前、後継者として、従弟の孫綝(そんちん)を指名、

権力は孫綝に引き継がれる事になりました。

孫綝の権力継承に不満を持つ勢力は、再びクーデターを起こしますが、

その全てが失敗に終わり孫綝の権力基盤は補強されていきます。

 

孫亮、16歳になり孫綝を排除しようとし失敗、帝位を追われる

 

西暦258年、16歳になり、親政への意思を持った孫亮は、

孫綝の命令を聞かなくなります。

それ以前に魏の諸葛誕の乱に加担し、将兵を多く失った孫綝の求心力も低下、

孫綝も宮殿の周囲に自分の側近を置いて、孫亮を包囲するなど、

政治的な保身を図り始めました。

 

こうして、孫亮は、自らの政治を実現しようと、腹心の全尚(ぜんしょう)や

孫魯班、将軍の劉承(りゅうしょう)らと謀り、孫綝を誅殺しようとします。

 

しかしこの計画は、前々から孫亮側の動きを調べていた孫綝により察知されます。

こうして孫綝は先手を打って9月26日にクーデターを起こし、

孫綝の弟、孫恩によって蒼龍門の外で劉承が殺され、全尚も屋敷で包囲され降伏、

零陵に流罪になり、さらに悪女、孫魯班も豫章に流罪の刑と決まりました。

 

クーデターに成功した孫綝は宮廷の門外に大臣を集めると、

孫亮を廃位し会稽(かいけい)王に落とす事を宣言します。

3代皇帝には、兄の孫休(そんきゅう)が迎えられ、孫亮は廃位され、

親政への夢はあえなく失敗に終わったのです。

 

孫綝の暴虐は孫休を迎えて、さらに激しくなりますが、孫休は隠忍自重して

孫綝を褒めそやし、その配下の官位を上げるなどして油断を誘いつつ

チャンスを待ち、258年の冬には、孫綝をクーデターで誅殺しました。

これにより、やっと権力は皇帝の元に戻ります。

 

孫亮は、会稽王として平穏無事に過ごしていましたが、西暦260年、

前皇帝の孫亮が皇帝に復位するだろうという噂が流れます。

さらに、会稽から、孫亮が巫女を使い孫休を呪い殺そうとしているという

内部告発があり、孫休は、孫亮を侯官侯に格下げし、任地に向かわせますが

その途中で孫亮は毒を飲んで自殺しました。

 

別の説では、孫休が後難を恐れて殺したとも言われます。

享年18歳、あまりにも若すぎる無念の最期でした。

 

孫権の息子7 皇帝の手に権力を奪い返すも短命に終わった 孫休

孫休

 

孫休子烈(235~264:そんきゅう・しれつ)は孫権の六男です。

孫休の母の王夫人(孫和の母の王夫人とは別)は孫権の寵愛を受けていましたが

孫和が皇太子になると、それ以外の夫人はすべて都を出される事になりました。

 

王夫人も例外ではなく、孫休共々、公安に移り、夫人はここで死去します。

孫休は十三歳のとき、中書郎の射慈(しゃじ)と郎中の盛沖(せいちゅう)より

学問を授かりますが、宮廷内で、孫和と孫覇の間で後継者争いが

激化している中では光の当たらない寂しい存在でした。

 

しかし、二宮の変に関与しなかった事、周囲から距離を取った事は、

後に孫休に皇位が転がり込むのと無縁ではありませんから人生は分りません。

 

呉を立て直す孫休

 

西暦252年、正月、孫休は琅邪(ろうや)王に封じられ虎林に居住します。

同年4月に父の孫権が崩御、皇太子である弟の孫亮が皇帝となり、

孫亮の補佐役となった諸葛恪が政治の実権を握る事になります。

 

諸葛恪は自身が幼帝を牛耳る上で、諸王のクーデターを警戒します。

孫休ら諸王は、長江沿いの戦略上の要地に配置されていましたが、

これでは結託されたら都合が悪いと考えた諸葛恪の命令で

孫休は丹陽郡に移住する事になります。

 

丹陽郡の太守の李衡(りこう)は、どういうわけか、

孫休をしばしば圧迫する態度をとったようで、そのため孫休はパワハラに苦しめられ、

他の郡への移住を願い出、勅を得て会稽郡に移住したと言います。

 

何にしてもパッとしない孫休の人生ですが、ここでも宮廷の騒乱に

関与していない事で地位が守られたとも言えます。

 

孫綝に擁立され、第3代皇帝に即位

 

258年の9月、孫亮が朝廷の実権を握る孫綝と対立、

クーデターを起こそうとして失敗し、会稽王に落され廃位されると、

代わりに孫休が皇帝に擁立されます。

 

孫休は陰謀があるのではと疑いますが、孫楷(そんかい)と董朝(とうちょう)に

「ためらえば反乱を疑われる」と進言され、二日迷った末に都に向かいます。

 

その途中、曲阿(きょくあ)にて一人の老人が目通りを願い出てきて、

「遅れると大異変が起きます、天下は貴方様を待ち望んでいます、

どうかお急ぎを!!」と頭を地に叩きつけて言います。

 

孫休はこの言葉を聞いて都に急ぎ、その日には布塞亭にまで進み、

10月18日、永昌亭に達しました。

 

そこでは丞相代行の孫恩(そんおん)が百官を率いて孫休を待っていて、

天子の乗り物や宮居、殿場が用意されていました。

老人の言葉は正しく、実は孫綝は孫休の到着前には、

自ら帝位に登ろうとして部下に制止されており、

孫休がやってきたのを知って諦めたようです。

 

孫休は、面と向かい孫綝と対立するのを避け機嫌を取ります。

その為に孫綝の一門からは五人の侯が出て、それぞれが近衛兵を率い、

権勢は主君の孫休を軽く凌ぐようになりました。

 

その上、あらかたの反対勢力は粛清されていて

孫綝を牽制する存在もないので、ますます増長が激しくなります。

 

どこまでも機嫌を取る孫休ですが、ある時、ふとした事から

孫綝からの酒と牛肉の贈り物を拒絶したことがありました。

孫綝は、たった、これだけの事を恨んで、酒席で張布(ちょうふ)に対して

「孫休を廃位する」と言い出します。

 

孫休は張布から孫綝がクーデターを計画していると聞くと、

慎重に根回しをして張布、丁奉(ていほう)らと計画を練ります。

 

「どんなに譲歩しても、孫綝の増長は止まない、廃位される前に

こちらから動いて誅殺するしかあるまい」

 

孫休は、猜疑心の強い孫綝を油断させる為に、わざと孫綝誅殺を

願い出た家臣の情報を孫綝に漏らして誅殺させ信用させたり、

孫綝の側近を侍中に取りたて、さも、宮中の情報は公開しているような

態度を取り繕います。

 

そして孫綝の油断を誘いながら準備を整えて、258年の12月、

神々を祀る行事に孫綝を呼び出します。

昨日から凶事が連発し、嫌な予感がした孫綝は病気を理由に参加を辞退しますが、

強引に孫休に説かれて出席し、その場で縄を打たれて誅殺されました。

 

孫綝一族は皆殺しになり、関係者も粛清され、こうして権力は、

久しぶりに皇帝の元に戻ります。

 

孫休は、衰えた国力を強力なリーダーシップで回復し、

凋落しはじめた呉を小康状態まで戻しますが、学問と狩りに没頭して

政治から離れ、その隙に古くからの親友の濮陽興(ぼくようこう)と

左将軍張布がのさばり、再び、政治は聾断されるようになります。

 

西暦264年、孫休は病気になり口が利けない状態になり、

自身の息子の孫𩅦(そんわん)に拝礼をさせ、後継者と決めると崩御しました。

しかし、孫𩅦は幼く、蜀の滅亡や、交州の離反という事態に幼帝では

対応できないと見た丞相、濮陽興と張布は、孫和の息子で英邁の誉れ高い、

孫皓を即位させる事に決め朱太后の了承を得て、即位させるのです。

 

それが返って呉の滅亡を早めるとは、その時、誰も気がついていませんでした。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

さて、7人に及ぶ、孫権の息子達の人生を振り返ってみました。

7名が全員、母親が違う異母兄弟で、仲が良いのは、孫和と孫登だけ

というのも、やはり兄弟が反目しやすい原因かも知れません。

 

魏のように、すべての側室をまとめて一致団結させる

卞(べん)夫人のような存在が呉の後宮にはいないのも混乱の元に

なっていった事でしょう。

 

しかし、せめて、二宮の変さえなければ、すんなり、孫和が即位し

息子の孫皓も歪む事なく、重臣達も無意味に粛清されず、

孫権没後の呉もあそこまで凋落しなかっただろうに残念でなりません。

 

特に、孫和と対立して孫覇を煽り、呉をガタガタにした孫魯班こと

大虎!あいつの讒言は、本当に許されませんね。

 

本日も三国志の話題をご馳走様・・

 

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