周公旦(しゅうこうたん)とはどんな人?周王朝の基礎を固めた功臣

2016年11月8日


はじめての三国志_ページネーション

こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。

周公旦とはどんな人(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



周公旦の悪口を言いふらす

 

武王の弟達は周公旦と召公奭が政治の実権を握っていることが許せませんでした。そこで彼らはまず周公旦の悪口を成王に言った後、各地の諸侯に周公旦の悪口を言いまくります。こうして周公旦に不満を抱いた諸侯と武王の弟達は、連合して周公旦に対して反乱を決行。しかし周公旦は彼らの反乱軍を見事に討伐して、戦乱が広まる前に鎮圧に成功。その後成王が幼少であったこともあり、召公奭と二人で政権を運営していくことになります。

 

周公旦の治世とは?

 

成王が幼いため周公旦(しゅうこうたん)と召公奭(しょうこうせき)は二人で、色々と政権運営が安定して行くには周王朝に何が必要であるか検討。その結果秩序が必要であることがわかります。彼はまず礼制(れいせい)と言われる制度を確立します。この制度は日常的な礼儀を民衆や諸侯に行わせることで、国の秩序を形成していきます。また周は諸侯の力を借りて殷王朝(いんおうちょう)を倒した為、秦王朝や漢王朝など中央集権制ではなく、地方分権制度によって天下を収めていくことになります。

 

周公旦は殷を打倒した際、諸侯へ領土を与えると共にその領土に対して自治権を付与。こうすることによって諸侯は周王朝に忠誠を尽くしておれば権力を維持することができ、周王朝も諸侯に対して領土を上げる事によって政権を維持していくギブアンドテイクの関係性によって王朝を安定させる計画を実施していきます。これらの政策を実施していくことで、周王朝は初代の武王亡き後も大きな混乱もなく政権を安定させることに成功します。

 

悪口の嵐

 

周公旦は政権を安定させるため召公奭(しょうこうせき)と共に幼い成王の後見人として周の政治を行っておりました。しかし周公旦が政権を運営していることに苛立った武王の弟達が、諸侯に周公旦の悪口を言いまくって反乱。周公旦はこの反乱を2年間の月日をかけて鎮圧します。その後召公奭が亡くなると周公旦が成王の後見人として、政権を運営していくことになります。すると今度は諸侯から「周公旦は王の座を奪おうと考えているのではないか」と悪口が出てきます。この悪口を聞いた成王も周公旦に悪感情を持ち始めます。成王にも疑われるようになった周公旦は周の国から楚の国へ亡命することになります。

 

楚へ亡命する

 

成王は周公旦の罪状を調べるため彼の家を家宅捜索します。すると武王の病気快癒を祈祷した際の祭文を発見。成王は周公旦がこの祭文に武王の悪口を書いているのであろうと思い、この祭文を開きます。祭文には「王を天の決定により病になったのであれば、全ての責任は私にあります。どうか私に罰を与えて王の病の回復をしてくだされ」と書いてありました。この祭文を読んだ成王は涙を流して感動します。

 

そしてすぐに楚の国に亡命している周公旦へ「旦よ。周のために色々と尽力してくれた忠臣に対して大変申し訳ないことをした。許してくれと言える立場ではないが、どうか周に戻ってきてくれないであろうか。」と謝罪の手紙を送ります。周公旦はこの手紙を見てすぐに楚を出て国へと帰ります。こうして国に帰ってた周公旦は再び政権の運営者として活躍することになります、

 

王として埋葬する

 

周公旦は周王朝の政権運営者として再び活躍することになるのですが間も亡くなってしまいます。彼は亡くなる前に成王に「私は成王を守るために都である洛陽に葬って欲しい」と懇願。

 

しかし成王は「あなたを臣下として葬ることはできない。王と同様の格式で葬るのが礼にかなっているであろう」と言って聞かず、周公旦が亡くなると周王朝の創始者である武王のとなりに埋葬します。

 

周王朝ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

周公旦がなぜ理想のNo.2に当たる人物なのでしょうか。彼は武王が亡くなると周王朝の政権の中で人望・実力共に成王を凌ぐ実力者でした。その為彼が本気を出していればトップに立つことも容易でした。しかし成王が成長して政治の舵取りを行うことができると判断してた周公旦は、政権の実権を成王へ返して、自らは臣下として成王に仕えております。この点が周公旦を理想と言える№2として評価されてる点であろうと考えます。

 

関連記事:びっくりするような遅咲き!天下の賢者 太公望

関連記事:【素朴な疑問】三国志時代はどうやって兵士を集めていたの?

 

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

-
-, , , ,