士仁(しじん)は何で関羽を裏切ったの?呉へ降伏してしまった蜀の武将・傅士仁

2016年11月9日


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朱然と関羽

 

三国志演義において関羽が荊州(けいしゅう)を失った原因は、麋芳(びほう)士仁(しじん)が荊州の樊城(はんじょう)攻略戦の時に兵糧輸送や兵士の増援を積極的に行ったことが原因で樊城攻略は失敗に終わってしまいます。

 

傅士仁

 

なぜ士仁は関羽を積極的に支援せず、呉へ降伏してしまったのでしょうか。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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劉備と案外関係が深かった!?

劉備

 

士仁は劉備が生まれた涿県(たくけん)の隣の県である広陽(こうよう)出身の人物です。彼はいつ頃から劉備に仕えたのか分からない為、もしかしたら関羽や張飛らと共にかなり古くから劉備に付き従っていたのかもしれません。

 

 

なぜ三国志演義だと「傅士仁(ふしじん)」と呼ばれるのか

正史 三国志 張飛

 

さて彼の名前は士仁よりも三国志演義に記されている傅士仁の方だと知っている方はいるはずだと思います。しかし本当の名は士仁であるのに、なぜ三国志演義だと傅士仁となってしまったのでしょうか。

 

後世に蜀の名将や活躍した文官達の記述をまとめた「季漢輔臣賛(きかんほしんさん」を書いた楊戯(ようぎ)は彼の名を士仁と記しております。しかし関羽伝のみ士仁の名で記されておらず傅士仁として記されていることが原因で、三国志演義にも彼の名前は士仁ではなく、傅士仁として記されてしまうことになります。

 

関羽を裏切った悪者として三国志演義では書かれ、本名も違う名前で後世に伝わってしまった可哀想な人です。

 

 

公安を守る

関羽 神様

 

劉備は益州に本拠を構えると関羽に荊州の全てを委任します。その後関羽は軍備を整えた後、曹操が立てた魏の領土を奪うため軍を北上させます。

 

関羽が軍を北上させた時、士仁は公安を守るように指示を受けます。彼は公安に入城すると関羽がいない間、しっかりと民政や軍備増強に励みます。しかし蜀軍のほとんどが、南荊州から姿を消すと蜀との同盟を破棄した呉軍が侵入してきます。

 

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呉から来た手紙

呂蒙

 

士仁は呉が蜀を裏切って荊州へ侵攻してくると、彼は城門をしっかりと閉じて籠城の構えを見せます。この時呉軍を率いていた呂蒙(りょもう)は虞翻(ぐほん)に士仁を説得するように命令を出します。虞翻は呂蒙から命令をもらうと手紙を書いて士仁へ送ります。

 

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親友・虞翻の手紙

 

士仁は若い頃虞翻と親交を結び、いつしか気心の知れる中となっておりました。しかし士仁と虞翻は蜀と呉の関係が微妙になってくると次第にふたりの仲も疎遠になっていきます。

 

そんな中久しぶりに来た親友からの手紙を開けるとボロボロと涙を流してしまいます。親友である虞翻から届いた手紙の内容は「君が守備している公安の城は呉の大軍に包囲されようとしている。また我が軍の総司令官である呂蒙は公安から関羽へ救援の使者が届かないようにするために、陸路を遮断しようと画策している。

 

あなたは今関羽と蜀に忠誠を尽くすために一人で篭城して、懸命に防ごうと考えているだろうが、もしあなたが戦死することになれば、君の家は祖先を祭る人がいなくなるであろう。

 

しかし関羽と蜀を裏切って呉へ降伏するには後世に汚名が残ると思い、降伏もできない状況になっているのだろうと察している。進退極まったこの状況になった君を想うと、私は君が心配でならない」との文面でした。この文面を見た士仁は大いに感動し、部隊長が見ている中でも平気で泣いてしまいまいます。

 

そしてついに呉へ降伏することを決断します。

 

呉へ降伏した理由は

甘寧 呂蒙 凌統

 

さて士仁は虞翻の手紙を読んで感動したことがきっかけで、公安の城を開城して呉へ降伏することになるのですが、虞翻の手紙を読んで感動した事も呉へ降伏したきっかけの一つですが、もう一つ理由がありました。

 

関羽は魏の樊城を攻撃する際に士仁と麋芳へ「兵糧と兵士の増援をしろ」と傲慢な態度で要請を出します。この関羽の傲慢な態度に怒りを感じた二人は、少しの兵糧と兵士を関羽の元へ送り届けます。

 

関羽は二人が要請した物資を満足に送ってこないことに腹を立てて「樊城攻略が終わったらただではおかん」と激怒。関羽が二人に激怒していることを知ると、大いに困惑してしまったことが原因です。また正史三国志は「関羽は自尊心が強い」と記しており、士仁や麋芳などの部下は日頃から関羽から酷使されていたことも原因の一つとして考えられます。上記の理由を総合すると上司である関羽が部下を大切にするつもりが毛頭ないことが、原因で呉へ降伏することになります。

 

 

士仁のその後

 

士仁は親友である虞翻からの勧めによって呉へ降伏するのですが、彼はその後一体どうなったのでしょうか。正史三国志によると呉へ降伏した後の彼の記録は一切残っていません。ですが三国志演義によると彼は呉の武将で、関羽を捕縛した馬忠を殺害し、

 

その首を持って再び蜀へ寝返ります。劉備は馬忠の首を持参した士仁を許すことをせず、関羽の息子である関興(かんこう)によって殺害されてしまいます。

 

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三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

関羽は死後神様になってしまったのと三国志演義で人気が出てしまったことがきっかけで、彼を裏切った士仁は完全に悪役のイメージが付いてしまいます。

 

もし士仁が関羽ではなく違う武将に仕えていればこんな悪役イメージをつけられることもなく、蜀を裏切らずにすんだのではないのでしょうか。「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。次回もまたはじめての三国志でお会いしましょうそれじゃまたにゃ~」

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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