現代日本史において、楠木正成(くすのき・まさしげ)の名前はあまり有名ではありません。
しかし、戦前には天皇に忠義を尽くした武将として正一位の最高の位階を与えられ広く日本人に知られた人物でした。
三国志演義の諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)に忠義で匹敵すると讃えられた楠木正成とは、一体、どういう人物だったのでしょうか?
この記事の目次
- 前半生が謎に包まれた正成の生涯
- 無名時代、鎌倉幕府の命令で紀伊国保田荘司湯浅氏を討つ
- 元寇と社会の変化で没落していく御家人層
- 複雑な荘園制の問題
- 貨幣経済の発展を荘園が阻害する状態に・・
- 社会からあぶれた新しい階層、悪党がクローズアップされる
- 社会の閉そく状況を見て後醍醐(ごだいご)天皇が立ちあがる
- 後醍醐天皇決起するも惨敗、隠岐に流罪になる・・
- 翌年、楠木正成再挙兵!百万幕府軍と対峙する
- ミラクル正成、百万幕府軍をたった千名で釘づけに!
- 本当に包囲されていたのは幕府軍だった!
- 建武の新政が始まるが正成は失望する・・
- 足利尊氏、建武の新政に反旗を翻す、正成はこれを破るが・・
- 正成、必死の諫言で天皇に尊氏と和睦するように訴える
- 正成、最後の提案も却下、湊川で尊氏の大軍と激闘
- 七生報国! 敵も感動した正成の最期
- kawausoの独り言
前半生が謎に包まれた正成の生涯
楠木正成(1294?~1336年)は、河内国(大阪府)千早赤阪村水分に生まれました。
しかし、かつて日本人に広く名を知られながら正成の活躍時期は三十代を半分以上過ぎてからで、たった五年間に過ぎませんでした。
その為か、前半生については謎が多く、どの身分から出てきたかでも幾つかの仮説に分かれています。
それらは、河内の土豪だったという説や、鎌倉幕府の御家人だったというもの、さらには、武士でさえなく荘園を私的に守る自警団の傭兵隊長のような存在から身を起こしたという説まであります。
すべて、バラバラではありますが、三説に共通しているのは、楠木正成が、河内国の水運や陸上交通の利権を握っている人物であり、その延長で各地の情勢に詳しかったという事です。
無名時代、鎌倉幕府の命令で紀伊国保田荘司湯浅氏を討つ
楠木正成の名前が最初に出てくるのは、1322年鎌倉幕府の命令で、紀伊国(和歌山県)保田の荘司(そうじ)湯浅氏を討伐したという事です。その功積で、正成は阿弖河(あてがわ)荘という荘園を与えられます。
鎌倉幕府の命令で動いている事から、当時の正成は御家人であり、幕府に忠義を尽くす立場だったのかも知れません。
元寇と社会の変化で没落していく御家人層
当時、鎌倉幕府は、二度に渡る元寇を撃退したものの、戦争で活躍した御家人(三国志で言えば武将)に恩賞を与えられませんでした。侵略を跳ね返しただけで、新しい領地を得たのではないですから当然ですが、自腹で戦費を出した各地の御家人達は、その為に経済的に没落します。
それに加えて当時は、鎌倉幕府の執権、北条氏嫡流の得宗家の権威が強まり、一時期は頻繁に起きていた内乱が沈静化し、これにより、御家人が戦争で手柄を立てて敗者の領地の再分配を受けるという流れが変わります。
そうなると、それまで兄弟に領地を分けていた御家人は財産の減少を恐れ嫡男だけに領地を相続させ、それ以外には財産を分けなくなります。
こうして、領地の相続からあぶれた庶子の武士は集まって集団化し、土地を明け渡すように命じる本家に背いて抵抗したり、
逆に、他人の荘園を集団で襲って侵略するようになりました。
このような荘園制からあぶれ、それと抵抗する勢力をひとくくりに悪党と呼んでいます。
複雑な荘園制の問題
元々荘園は、墾田永年私財法が制定され、開墾した土地の私有が認められた事で爆発的に増加していきました。
しかし、荘園の権利を守る朝廷が弱体化していた事から、荘園の領主はこれを単独で所有して奪われるより前に、権力がある寺院や藤原氏のような有力な公家に寄進してしまうようになります。
寄進と言っても、実際にあげるわけではなく、利益の一部を上納しますから貴方の名義で暴力から守って下さいという意味です。
同時に領主達は、荘園の土地や作物を守ろうと自警団を造るようになり、これが武士の始まりになります。
そう、武士とは荘園を守る自警団から始まったのです!!
ところが鎌倉幕府が成立すると、荘園に劇的な変化が起きます。
源頼朝は1185年に、弟義経を追討すると同時に、全国に守護と地頭を置きますが、この地頭の領地は各地の荘園の中にあったのです。鎌倉幕府は権力を盾に荘園に配下の御家人を送りこみ、荘園領主に、利益を折半するように捻じ込んだのでした。
武力による脅迫付きの命令に荘園領主は、やむなく従いますが、ここで、荘園の支配体制は、領主と地頭という両頭体制になり、
複雑化し、各地で問題が発生します。
それでも幕府の力が強い間は良かったのですが、元寇以後、幕府権力が弱くなると訴訟では決着が着かず、地頭勢力と荘園領主が悪党勢力を巻き込み、武力紛争を行う事態になります。
貨幣経済の発展を荘園が阻害する状態に・・
また鎌倉末期は急速に貨幣経済が発達して物流が劇的に進んでいました。
ところが、各地に荘園が乱立していると、その度に足止めを受け通行料を徴収されたりと不便な事が多かったのです。
土地を持たず、物々交換では無く、銭を多用する商人階層の登場も古い荘園制度の改革を要求していました。
社会からあぶれた新しい階層、悪党がクローズアップされる
悪党は単純にモラルが低い人=悪人という意味だけでなく、当時の社会の規範から外れた常識外れの人々を意味していました。
楠木正成も、この悪党の部類に入っている存在でした。
悪党達は、荘園という古い社会システムに縛られず自分達が縦横無尽に活躍できる世の中を渇望するようになります。
一度は、鎌倉幕府の命令で湯浅氏を討伐した正成ですが、荘園制度を改革する事なく、悪党を討伐して問題を先送りする幕府に
反感を強めていきます。
社会の閉そく状況を見て後醍醐(ごだいご)天皇が立ちあがる
鎌倉幕府は、自分達の家来である御家人の利益を保護しようと、悪党の追討に熱心でしたが、思ったように成果はあがりませんでした。そこで、御家人層にも幕府への失望が広がっていきます。
執権の得宗家も、時代が下ると幼い執権が立ったり執権がさらに権力を獲得しようとして失敗するなどで形骸化し、北条庶家や
御内人らによる寄合衆が幕府を支配しひたすら勢力争いをして荘園の抜本改革が出来ませんでした。
この混乱に乗じて、承久の乱以来、100年以上も抑え込まれた皇室の権力を回復させようと、後醍醐天皇の策謀が動きます。天皇は、味方を募る為に身分に拘らず、多くの人々に協力を呼びかける密書を飛ばします。
密書は楠木正成にも届きました、矛盾だらけの荘園のシステムを抜本的に見直して、悪党も世の中の一員として認められる
そのような夢の社会を目指し、正成は後醍醐天皇に味方する事を決意、天皇は自身の荘園であった和泉国若松荘を与えています。
忠義に厚い正成は天皇の厚遇に感激し絶対の忠誠を誓う事になります。この時点で正成は、37歳になっていました。
後醍醐天皇決起するも惨敗、隠岐に流罪になる・・
後醍醐天皇の反乱計画はしかし、内部から密告者が出て未然に発覚します。
後に引けない天皇は4千の手勢を率いて、現在の京都府相楽郡の笠置町にあった笠置山の砦に立て籠もり7万5千の幕府軍と対決しました。
後醍醐天皇側は奮戦し、山城であった事も幸いして1カ月持ちこたえますが、幕府方が「この際、天皇が焼死しても事故ってことで・・」と、笠置山に火を放つと、それが砦に燃え移り後醍醐天皇側は敗走を開始。それを幕府側は追撃して天皇は捕えられ、隠岐に島流しになります。
一方、楠木正成は護良親王を擁して、本拠地の河内国の下赤坂城で蜂起します。ここで、正成は500の兵で数十万の幕府軍を翻弄したとされます。しかし、後醍醐天皇が捕えられたと知ると一計を案じて自ら城に火を掛けます。
幕府軍は、燃え落ちた城に入りますが、穴の中に30名余りの焼死体があるのを見て、これを正成の郎党と思い込み、戦は終わったと鎌倉に帰還します。しかし、これは戦死した兵を穴の中に置いて火をつけた偽装であり、正成は護良親王と共に悠々と逃げる事が出来たのです。
ここには正成という人物の性質が発揮されています、城が落ちても自決せず逃げる事を恥とも思わず、あちこちで戦闘を仕掛ける様子はゲリラであり従来の武士の概念とは大きく異なるものでした。
翌年、楠木正成再挙兵!百万幕府軍と対峙する
幕府は落ち延びた正成を捕えようとしますが、全国に散らばる悪党勢力は、正成を庇い、その行方はまるで知れませんでした。
一方で幕府の動きは、山伏などにより逐一正成に伝えられていたので、正成は、幕府の動向を的確に掴んでいたのです。
そして、1332年、正成は奈良県の吉野で再度挙兵します。
この時、隠岐に流された後醍醐天皇と各地で転戦していた護良親王は、正成に左衛門尉の官位を与えました。
正成の手勢は1000名に満たない数でしたが、自身のホームグラウンドである河内国の上赤坂城に立て籠もりました。
鎌倉幕府は、楠木正成を捕えて斬首すれば、日和見をしている各地の御家人も幕府に従うだろうと威信を賭けて、100万の大軍を送りこみます。
正成はゲリラ戦法で善戦しますが、幕府軍は城の水源を断ったので、持久戦を諦めた正成は退却、上赤坂城は落城しました。
正成の郎党は、次に金剛山の中腹に築いた千早城に入ります。
幕府は、山城の千早城を攻めるのは被害が大きくなると考え、同じように千早城の水源を断ち、包囲して兵糧攻めにします。
ところが、正成は同じ失敗をする人間ではなく、山城の千早城には水も食糧も充分に備えられていたのです。
ミラクル正成、百万幕府軍をたった千名で釘づけに!
予想に反して、正成は降伏しないので包囲は長期にわたり、幕府方には士気の低下が見られました。
正成は、それを見透かすと、藁人形を30体造って鎧兜を着せて、背後から本物の弓兵500を従えて幕府軍に切りこみました。
幕府方は、最後の突撃と考えて一斉に襲い掛かります。
そこで、正成は藁人形の影からありったけの矢を放ちながら後退、さらに、幕府方の兵が藁人形まで辿り着くと、正成は用意してあった大石を放り込んで、幕府兵を礫殺、300名を即死させ、500名を負傷させる大戦果を挙げました。
業を煮やした幕府軍が、大工を動員して隣の山から峡谷をまたいで、橋を架けて千早城に入ろうとすると、正成は悠々と橋を架けさせ、幕府兵数千が橋を真ん中まで渡った所で、水鉄砲を一斉に橋にかけます。しかし、それは水ではなく油でした。
そこに松明を投げ込むと、火はあっという間に橋に燃え移って広がり、幕府兵は、前に進む事も退く事も出来ず、峡谷の上で全員が焼死し、やがて、橋ごと谷底に落ちていきました。
本当に包囲されていたのは幕府軍だった!
さらに、幕府軍の兵も兵糧も麓で執拗な攻撃に遭うようになります。それは、正成の仲間である悪党の仕業でした。
商人に化けたり、農民に化けたりしながら、悪党はしつこく幕府兵に攻撃を仕掛けて正成を援護します。
やがて、幕府軍は気が付きます、自分達は包囲しているのではなく河内国の悪党全てに包囲されているのだと・・
幕府軍の兵の士気は日に日に低下し、全国にも幕府軍不利の情報が飛び日和見していた御家人にも、後醍醐天皇側に立つ者が出ました。
千早城に気を取られている幕府の隙を突き、後醍醐天皇は、隠岐を脱出し、改めて鎌倉幕府討伐の命を下します。
こうして、幕府方の有力な御家人だった足利尊氏、新田義貞、赤松円心が鎌倉幕府に反旗を翻し鎌倉に攻め込む事態になり、源頼朝以来、150年余り続いた鎌倉幕府は1333年、呆気なく滅亡しました。
建武の新政が始まるが正成は失望する・・
後醍醐天皇は、自ら政務を執り元号を建武として政治を開始します。
これが建武の新政で、武家に権力を奪われてから150年、久しぶりの天皇による政治の奪還でした。
楠木正成は第一等の手柄として、記録所寄人、雑訴決断所奉行人の職に就き、さらに河内・和泉両国の守護大名となります。
元々の出自を考えれば、破格の出世と言えるでしょう。
ゲリラ戦法とは真逆で、謙虚で真面目で誠実だった正成の人柄は天皇に愛され、結城親光、名和長年、千種忠顕とあわせて三木一草と讃えられます。
しかし、建武の新政は朝廷の権限を強化して武士の力を制限し、平安の昔に戻すような復古的な政治運営でした。
僅か三年間の新政の期間に朝廷の富は五十倍に膨れ上がったと言いますからそれが、武士階級に余り還元されなかったのは明らかでした。
鎌倉幕府を倒す為に命がけで働いた御家人への恩賞は僅かで、何もしていない公家に大きな領地が与えられるなど
始まって二年も経過しない間に新政への期待は失望に変わっていきます。
足利尊氏、建武の新政に反旗を翻す、正成はこれを破るが・・
その中で、武家の名門、足利尊氏は、恩賞が貰えない御家人に、自らの領地を分けるなどして新政に不満を抱く御家人の期待を集めていきます。
建武二年(1335年)足利尊氏は、鎌倉幕府の残党が起こした中先代の乱を鎮圧する為に京から鎌倉に向かい、鎮圧後も鎌倉に留まり乱の鎮圧に功績があった御家人に、勝手に恩賞を与えました。
これは建武の新政に叛く行為であり、怒った後醍醐天皇は新田義貞を討伐軍総大将に任命しますが、箱根、竹の下の戦いで尊氏は義貞を撃破します。
正成は、北畠顕家と共同して南下する尊氏軍を撃破し、敗れた尊氏は九州へ向かい落ち延びていきました。
ここで、正成は信じられない光景を目にしました。
勝った朝廷方の武士が、落ちていく尊氏方に合流して去っていくのをハッキリと目にしたのです。
正成「建武の新政は失敗であった、、もう取り返しがつかぬ・・」
時代を観る目に長けた正成は、後醍醐天皇の求心力が衰えて、時代が尊氏を選んでいる事を察知しました。
正成、必死の諫言で天皇に尊氏と和睦するように訴える
楠木正成は、尊氏を破った今こそが和睦の好機ととらえ、天皇に上奏します。
ところが、「勝ったこちらが、どうして尊氏に頭を下げるのか!」と叱責され天皇も新田義貞を尊氏討伐に向かわせました。
正成「帝!畏れながら、これからの世は尊氏との協調なしには治まりません。
どうか、征討軍に出した新田義貞は切り捨て尊氏の罪を許され和睦して下さい。今を外せば手遅れになります、何卒、何卒、お聞き届け下さい」
正成は尚も、必死で諫言し、後醍醐天皇に尊氏との和睦を哀願しますが逆にますます不信感を持たれ、領地で謹慎を命じられます。
一方、九州に出向く筈の新田義貞は播磨国で尊氏方の赤松円心の謀略にハマり、白旗城に籠城した赤松軍を50日経っても落とせませんでした。
こうして、体勢を整えた尊氏は5万という大軍を集めて北上を開始します。
事態の不利を悟った新田義貞は、白旗城の包囲を解いて退却しますが、赤松軍は、逆に攻勢に転じて、義貞の軍を撃破します。
義貞の軍勢からは寝返りも続出して、軍はやせ細り兵庫まで引き、体制を立て直そうとします。
正成、最後の提案も却下、湊川で尊氏の大軍と激闘
尊氏北上の噂を聞いた朝廷は大慌てし、謹慎していた正成を呼び出し、急いで尊氏を迎え撃つように命じます。
そこで、正成は、このまま天皇を京都から吉野に移し尊氏軍を京都に入れてゲリラ戦を仕掛けて消耗させる戦術を提案しました。
しかし、天皇がたびたび所在地を変えては威信に関わるという公家連中の、実にくだらない理由で提案は却下されます。
正成は天を仰ぎ、最早、万策尽きた事を悟りますが天皇の命に従いたった7百の軍勢を率いて、尊氏軍5万に挑みます。
尊氏軍は、弟の足利直義が率いる2万の軍勢が陸路、尊氏率いる3万の本隊が海路から攻め込みます。
大軍に包囲される事を恐れた義貞が、陣を内陸に引いたので湊川(兵庫県神戸市)に布陣した正成の七七百騎は孤立する事になりました。
尊氏の本隊は3万で正成の七百騎を何重にも包囲します。
正成は、たった7百の手勢で10回以上も突撃を繰り返し再三に渡る、尊氏の降伏勧告を黙殺して、最後は弟、正季と刺し違えて自害しました。
七生報国! 敵も感動した正成の最期
死ぬ直前、正成は弟、正季と、こんな約束をしました。
「我々は、ここで朽ち果てるが、例え、七回生まれ変わろうとも、帝の為に、変わらず忠義を尽くし御恩に報いよう」
あれほど裏切られた天皇に何一つ恨み事も言わず、正成は、何度生まれ変わろうと変わらず天皇に忠義を尽くそうと言い残し自殺したのです。
死んで首だけになった正成を見て、宿敵であった足利尊氏は涙を流しその死を惜しんだと言います。
謙虚で誠実で清廉潔白、誰からも好かれた正成は負けると分っていた戦いを敢えて戦い、忠義を貫いて日本人の鑑となったのです。
kawausoの独り言
勝ち負けではなく、忠義を貫く事に意義がある、諸葛亮孔明と、楠木正成は、まさに、この一点を貫いて後世に讃えられる存在になりました。
多くの英雄が、勝ち残る為に味方や主君を裏切るという過程を経る中で例え裏切られても、主君は裏切らない二人のケースは稀です。
七生報国は、戦時中に使われたスローガンである事から、「天皇の為に生命を投げだす事を正当化した間違った思想」と否定されましたが、実際の正成は天皇の命に唯唯諾諾と従ったのではなく諫言すべきはしているので、本来は、死ねと言われれば何も考えず死ぬというような薄っぺらい思想ではありません。
七生報国は、むしろ、強いからと言って簡単に権力者に尻尾を振る軽薄な風潮に対して、己を持て、正義を貫き死んでも時代に流されるなと訴えかけるものなのです。
実際に、正成の七生報国に影響を受けた幕末の志士は、圧倒的な武力を誇る徳川幕府に反逆し命を賭して明治維新を成し遂げました。名も実利も求めず、ただ世の中を良くしようと念じて死んだ志士達は、正しく正成の生き方を継いだと言えるでしょうね。