三国志の運命を変えた戦いはいくつかありますが、
著しく変化が起きた戦いといえば宦渡の戦いや赤壁の戦いでしょう。
特に赤壁の戦いは曹操軍が勝利すれば天下はほぼ曹操軍のモノになるはずであった戦いです。
しかしこの戦いは孫呉・劉備連合軍に敗北してしまいます。
ここまでは「はじめての三国志」の読者であればみんな知っていることです。
赤壁の戦いで曹操軍が敗北した原因ははじさんでも取り上げられておりますが、
曹操の油断や孫呉軍が火計を仕掛けた際の気候変化など色々な原因が挙げられますが、
曹操が敗北した一番有名な原因として上記でも挙げた火計による攻撃と
言えるのではないのでしょうか。
しかし今回はこの孫呉軍が赤壁の戦いで
決死の覚悟で行った火計が曹操軍の敗北理由ではない可能性がありました。
関連記事:もし郭嘉が長生きしてたら赤壁の戦いでは曹操軍はどうなっていたの?
赤壁の戦いとは
赤壁の戦いを知らないはじさんの読者のためにここで赤壁の戦いをざっくりとご紹介します。
曹操は袁紹を倒して中国の半分を手に入れると天下統一をするために孫権が勢力を張っている
江南に向けて進撃を開始。
曹操はまず荊州(けいしゅう)を手に入れた後に江南を討伐するべく攻撃を開始するべく進軍。
劉備は曹操軍と敵対することをせずにさっさと退却して江南に近い江夏(こうか)に駐屯します。
劉備軍の軍師として加わった孔明は孫呉と劉備軍を同盟させて曹操軍に連合して戦うために
孫権の元にやってきます。
孔明は曹操軍の状況と孫権軍の状況等を比較して説明し、
劉備軍と一緒に曹操軍を撃退するための同盟を結ぼうではないかと呼びかけます。
孫権は孔明の説得に応じて劉備と同盟。
孫呉は曹操軍を打ち払うべく、周瑜を孫呉の総大将として任命して曹操迎撃戦を指揮させます。
そして曹操軍と孫呉・劉備連合軍は赤壁の地で決戦を行います。
この時孫呉の将軍である黄蓋が曹操軍に偽の降伏を申し出て、
この降伏を曹操も信じてしまいます。
降伏当日、黄蓋は曹操軍の陣営にまで近づくと自らの船に火をかけて燃やしたことで、
曹操軍の船団全てに火が燃え移ってしまい、
曹操軍は壊滅的なダメージを受けて撤退していくことになります。
上記が細かいことを抜きにしてご紹介した簡易版・赤壁の戦いのあらましです。
正史三国志の記載は超小さい
正史三国志での赤壁の戦いはまるっきり歴史を変えたような戦いとして扱われておらず要約すると
「曹操は孫権・劉備連合軍と戦うが敗北。この時に兵士が疫病にかかってしまう」と
いうことしか書かれていません。
超短い紹介文というよりもただ言葉を並べただけのもので、どのようにして敗北したのかや
どうやって勝ったのかなどは一切書かれていません。
関連記事:もし赤壁の戦いで曹操が死んだら歴史はどうなっていたの?
関連記事:天才魯粛の生涯!赤壁の勝利は魯粛無しにはあり得なかった?
曹操軍の敗北原因はこれだ
さて赤壁の戦いで敗北した曹操軍ですが、一切正史三国志には火計の言葉は見つかりません。
では一体何が敗北原因なのでしょうか。
曹操軍には軍勢のほかに江南の長江流域に発生する疫病(風土病)に苦しめられておりました。
この疫病の名前を山風蟲(さんふううこ)と呼ばれていたそうで、
夏に発生する病気でした。
体内に入った菌が発症するまでになんと一ヶ月ほど潜伏した後に発病するそうです。
そのため曹操軍が江陵を奪取した時から数ヶ月間は駐屯していたので、
駐屯している間に感染して赤壁の戦いが勃発した頃には
疫病で動けない兵士がたくさんいた可能性があります。
そしてこれはレンの勝手な推測ですが、曹操は風土病に犯された兵士達が多すぎて
このまま戦っても孫権軍に敗北してしまうことは目に見えているので、
彼は自らの船団に火をつけて撤退したとは考えられないでしょうか。
でも何で孫呉の軍勢は疫病にかからなかったのでしょうか、
それは孫呉は長江流域で生活をしている兵士が多いからではないでしょうか。
長江流域で生活をしている人々には免疫効果が有り、風土病にかかりにくかったと考えられます。
関連記事:赤壁の敗戦の原因は腸チフスだった?多くの魏将の生命を奪った伝染病とは?
関連記事:レッドクリフを100倍楽しむ!赤壁の戦いを分かりやすく徹底紹介!
三国志ライター黒田レンのひとりごと
疫病によって曹操軍の士気は大いに低下し、
戦力となる兵士の数が激減したことが孫呉軍に敗北したことの原因だったとすると
火計がなくても曹操軍に勝利することが可能であったのではないのでしょうか。
正史三国志に火計の文言がないのは曹操軍の疫病による退却であるとは考えられないでしょうか。
参考文献 講談社 中国の群雄 尾崎秀樹著など
関連記事:赤壁の戦いは計略の宝庫
関連記事:赤壁の戦いにモデルがあった?八陽湖の戦い
—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—