黄巾賊より多い黒山賊100万を率いた張燕(ちょうえん)

2017年2月11日


 

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李典と于禁、黄巾賊

 

西暦184年の甲子の年に反乱を起こした武装集団は?と言えば、少し三国志に詳しい方であれば黄巾賊(こうきんぞく)と即答すると思います。

 

しかし、実際はブーなのです、確かに黄巾賊も蜂起しましたが、その裏で黄巾賊を遥かに上回る山賊集団が蜂起していました。黒山賊(こくざんぞく)というのがそれで最盛期には百万を数えて猛威を振います。その頭領こそが、今回の主人公、張燕(ちょうえん)です。
 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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趙雲と同郷、張燕乱世に暴れ回る

張燕

 

張燕は元の名を褚(ちょえん)と言い、常山真定の出身です。そう、あの趙雲(ちょううん)と同郷なのですが、どうやら出自は貧民であるようです。西暦184年、黄巾の乱が起きると、張燕はそれに乗じて不良青年を千名程集めて、山や沢の中にあって掠奪行為を繰り返します。

 

張燕は動きが素早く勇敢である事からたちまち人望を集めていき仲間からは、飛燕(ひえん)のあだ名で呼ばれました。日本語で言えば「ツバメの張」くらいの意味でしょうか。黄巾賊の猛威もあり官軍の討伐の手も回らない事で、張燕の仲間は次第に増えていき、真定に戻る頃には1万の山賊の頭でした。

 

張牛角と連合して廮陶を攻める

23-3_次第に巨大化していく黒山賊と張燕3

 

その頃、博陵(はくりょう)でも、張牛角(ちょう・ぎゅうかく)という男が不良青年をまとめ将兵従事となのり山賊化していました。牛角という名前からしてあだ名っぽいので、恐らく本名ではないでしょう。張燕は、この張牛角と連合して牛角を将師として副官になりました。こうして数万の大軍になった山賊連合は廮陶(えいとう)を攻めます。

 

こそこそ、山や谷で略奪をするのではなく歴とした城市を攻めたのです。数万という大勢が彼等に度胸を与えたのでしょうし、ここまで味方が増えれば小さな掠奪では間にあわないでしょう。

 

しかし、この攻城戦で張牛角は流れ矢にあたり呆気なく戦死します。死ぬ間際に牛角は部下を集め、これからは張燕に従うように命令したので以後、張燕が山賊を率いる事になります。

 

張燕は勢力を伸ばし黒山賊100万の頭領になる

23-2_黒山賊

 

張燕は、数万の仲間を食わせる為に頻繁に掠奪を繰り返しつつも同時並行で各地で蜂起した大小の山賊勢力の一本化を進めるようになります。すでに黄巾賊が討伐されていて、いつ官軍の矛先がこっちに向くか分かったものではないので、大同団結して窮地に備えようとしたのです。

 

張燕の呼びかけに常山、趙郡、中山、上党、河内の山賊は連帯します。元々、大半は食いつめて蜂起したのですから、頼りになるボスを欲しがったのです。山賊団の頭領であった孫軽(そんけい)王当(おうとう)は各々賊を率いて張燕に続々と従い、総数は百万に至って黒山軍(こくざんぐん)と名乗りました。張角が起こした黄巾賊が36万人ですから、その3倍弱が張燕をボスとして結集した事になるのです。

 

霊帝は黒山賊を討伐して失敗、そこで張燕は・・

霊帝

 

さすがに100万になった黒山賊を放置する事は出来ません。霊帝(れいてい)は討伐軍を送り込みますが、全く歯が立ちませんでした。通常なら、ここで独立して王朝を建国する所ですが張燕はそうはしません。逆に使者を洛陽に送り帰順を表明したのです。

 

黒山賊を討伐できず面目を失っている今がチャンスという思惑ですが、これが的中、霊帝は張燕を平難中郎将(へいなん・ちゅうろうじょう)へと任命しました。この地位は有能な人材を孝廉(こうれん)で中央へ推挙できる立場であり事実上後漢王朝は張燕の実効支配を黙認した事になります。

 

もちろん、張燕の立場に変更はなく従来通りで、今後は後漢王朝の権威を背景に合法的に支配下の河北諸郡から年貢を獲れるようになります。武力だけではなく時勢を読む力に優れた張燕の一面が分りますね。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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