実は無能では無かった?少帝が妃と交わした最後の歌が悲しすぎる

2016年11月1日


 

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※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。

 

三国志演義においては、ミスター無能の烙印を押され、母の何(か)皇太后と共に

董卓(とうたく)に殺されてしまう、影の薄い少帝こと劉弁(りゅうべん)、、

しかし、それは演義の脚色で真実の彼は、無能でも少年でもありませんでした。

今回は、歴史に翻弄された青年皇帝、少帝の物語を紹介します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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即位した時は16歳、少年では無かった少帝

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三国志演義では、10歳になるか、ならないかの小学生程度に描かれる少帝ですが

史実では、西暦173年、または176年の生まれになっています。

董卓が洛陽に入り政治の実権を握るのは、189年ですから、

173年生誕なら、少帝はすでに16歳になっていて

演義のイメージとは異なり青年皇帝と言っても不思議はありません。

 

弟の劉協(りゅうきょう)は181年生まれなので、

最大では少帝と8歳程年齢が違うという事になります。

 



叔父は外戚、何進大将軍、母は何進の妹で霊帝の妃

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少帝の母は、何皇后と言います、後漢の12代皇帝の霊帝の皇后ですが、

元は町の肉屋の娘で低い身分の出身でした。

しかし、生まれ持った美貌と勝ち気な性格で霊帝の心を掴み

後宮に入ると、すぐに劉弁を出産して、多くいた夫人の立場から抜きんでて

180年には、皇后の座を掴んで権力を盤石にします。

 

こうして、実家の何氏は漢王朝の外戚(がいせき)になり、

兄の何進(かしん)は大将軍に昇進、何一族は、我が世の春を謳歌する事になります。

 

関連記事:霊帝は近衛軍創設の為に売官で資金を造った?実は優秀な皇帝の真実

 

ライバルの王美人を毒殺する冷酷な何皇后

小帝 妃

 

ところが、霊帝は浮気な男で、王美人という夫人との間に子供が生まれます。

この子が、前述した少帝の異母兄弟、劉協です。

嫉妬深い、何皇后は王美人を憎み、ついには毒殺してしまいます。

霊帝は激怒し、何皇后は地位を奪われそうになりますが、宦官に泣きついて

賄賂を贈り、なんとか皇后の地位を保つ事が出来ました。

 

霊帝の死後、少帝は即位するが、直後に悲劇が・・

小帝

 

西暦189年の5月に霊帝は崩御、宮廷は劉弁を推す、何皇太后&何進と

王美人の忘れ形見の劉協を推す、霊帝の実母、董(とう)太后との争いになりますが、

政治の実権を握る何進と宦官を手なずけた何皇太后が勝利し、

董太后を洛陽から追放する事に成功します。

 

こうして即位した少帝ですが、今度は何進と宦官の間で権力争いが勃発。

何皇后は、宦官と兄のどちらにも繋がりがあり、どちらかを切るという決断が

出来ませんでした。

 

先に動いたのは宦官勢力で、偽の命令で何進を宮廷に呼び出して暗殺。

それに逆上した何進の子分である、袁紹(えんしょう)

袁術(えんじゅつ)は兵を動かして宮廷へ乱入。

3000名と言われた宦官を無差別に虐殺する事件を起こします。

 

大混乱した洛陽に董卓が入城、何皇太后を殺し、少帝を廃位する

小帝と董卓

 

混乱した宦官たちは、少帝と劉協を引き連れて洛陽を脱出します。

しかし、途中で何進の命令で洛陽に向かっていた董卓の軍勢と遭遇、

もはや、これまでと観念した宦官達は河に飛びこんで自殺しました。

 

董卓は、置き去りにされた少帝と劉協を保護して、堂々と洛陽に入城。

次第に横暴な本性を表した董卓は、何皇太后を永安宮に幽閉して、

後に毒殺、少帝も廃位して弘農王に格下げし、弟、劉協を皇帝に立てます。

これが後漢最後の皇帝、献帝になります。

 

領地、弘農郡にいた劉弁に不運が訪れる

董卓

 

皇帝の地位を剥がれたとはいえ、弘農王として平穏に過ごしていた劉弁、

ところが劉弁の寿命を縮める大事件が発生します。

それが西暦190年に結成された反董卓連合軍でした。

 

袁紹曹操(そうそう)袁術孫堅(そんけん)張邈(ちょうばく)、

王匡(おうきょ)、孔伷(こうちゅう)というような

諸侯によって構成された大軍は董卓を撃破し、危機感を覚えた董卓は、

洛陽を焼き払い、住民ごと西の長安へと遷都してしまいます。

 

その時、董卓は反董卓連合軍が、弘農、劉弁を担いで再び帝位に

つける事を警戒し、これを殺害する事を決意するのです。

 

反董卓連合軍のリーダーの袁紹は、何進大将軍の子分で董卓が立てた

献帝を認めていないので、劉弁の身柄が手に入れば、再び皇帝に

即位させる可能性は充分にありました。

 

殺される前に宴を開き妃と歌を交わす青年 劉弁

小帝

 

董卓の追手が自分を殺しに来る事を知った少帝、劉弁は少しも恐れず、

妃や妻達を集めて別れの酒宴を開きました。

そこで、劉弁は、妃の唐(とう)妃にこんな歌を詠みます。

 

「運命とは自分ではいかんともしがたいものだ、万乗の君の地位を棄て

この土地を守らんとしても、逆臣は私の命を狙い、これ以上生きられそうもない。

いまは、ただ、やすらかに西方浄土へと旅立とうと思う」

 

それを聞いて、唐妃は、このように歌を返します。

 

「漢の天下は崩れ、国土は奪われるばかり、

帝として生まれたばかりに大事な命を若くして砕かれてしまう

今、夫婦としての生死の道を異にしてあなたと離れる私は、

独りぼっちで寂しく、胸は悲しみで潰れそうで御座います」

 

若い二人の余りにも悲しい歌を聴き、

周囲の人々は声を殺して泣きました。

 

「君は皇帝の妻だ、どうか誇りを持ち、吏民と再婚などしないでくれ、、

では、さらばだ、体を大事にするんだぞ」

 

劉弁は、唐妃にこう言い残すと董卓の兵に連行され、

生きて戻ってはきませんでした。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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