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黄巾賊より多い黒山賊100万を率いた張燕(ちょうえん)

2017年2月11日


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黒山賊100万を率いた張燕

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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董卓や公孫瓚と連携して生き残りを模索するが呂布に破れる

23-4_呂布に敗れる張燕

 

張燕が平難中郎将に任じられて間もなく、洛陽は董卓(とうたく)の侵入によって、無法地帯と化し、後漢は事実上滅亡状態になります。その中で張燕は生き残りを模索し、献帝(けんてい)を擁立した董卓と結ぶ一方、袁紹(えんしょう)とは敵対し、北方の公孫瓚(こうそんさん)と結ぶ事で生き残ろうとします。

 

しかし、張燕の予想に反し、公孫瓚は敗北を重ね、勢力を減退させます。袁紹は黒山賊の討伐に取りかかりますが、精鋭1万に騎兵数千を擁する黒山賊に歯が立たず、たまたま袁紹を頼ってきた呂布(りょふ)に黒山賊の討伐を命じました。

 

これを受けた呂布は、赤兎馬に跨り勇将、成廉(せいれん)魏越(ぎえつ)率いる数十騎で一日に何度も黒山賊に突撃を繰り返します。そして、楽々と賊を蹴散らすと、生首をゴロゴロ抱えて戻ってきました。こんな事が十数日続くと、黒山賊は呂布を恐れ、とうとう分裂状態になり百万人もいた軍勢は雲散霧消してしまったのです。勢い猖獗(しょうけつ)を極めた黒山賊は、呂布と数十騎により崩壊した事になります。

 

袁紹の敗北後、冀州を支配した曹操に帰順する

曹操

 

力を失った張燕は、袁紹の報復を恐れて逃げ回っていましたが、官渡の戦いで曹操(そうそう)が袁紹を撃破し袁紹が病死すると、張燕は曹操に対し使者を送り「天下統一の王業を助けたい」と申し出ます。

 

袁尚と対立する袁譚

 

曹操は張燕の帰順を受け入れ平北将軍、安国亭侯に封じ食邑500戸を与えます。袁紹が死んだとはいえ、北方には袁尚(えんしょう)、袁熈(えんき)、袁譚(えんたん)が存在していて、何らかの事で結びつく事を恐れたのでしょう。また、張燕が反袁紹であり、後漢王朝により官位を与えられていた事も幸いしたのかも知れません。こうして、張燕は乱世を読み切り、最期は曹操の部下として天寿を全うしました。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

時勢を掴んで大勢力になった山賊の末路は、大抵思い上がって王や皇帝を自称し自滅するというのが圧倒的ですが、黒山賊の総帥である張燕は時勢を見る目がありその時代の権威を上手く利用して生き残る事に成功しました。黄巾賊と同時期の蜂起ですが、その最期は対照的であると言えるでしょう。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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