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この記事の目次
董卓や公孫瓚と連携して生き残りを模索するが呂布に破れる
張燕が平難中郎将に任じられて間もなく、洛陽は董卓(とうたく)の侵入によって、無法地帯と化し、後漢は事実上滅亡状態になります。その中で張燕は生き残りを模索し、献帝(けんてい)を擁立した董卓と結ぶ一方、袁紹(えんしょう)とは敵対し、北方の公孫瓚(こうそんさん)と結ぶ事で生き残ろうとします。
しかし、張燕の予想に反し、公孫瓚は敗北を重ね、勢力を減退させます。袁紹は黒山賊の討伐に取りかかりますが、精鋭1万に騎兵数千を擁する黒山賊に歯が立たず、たまたま袁紹を頼ってきた呂布(りょふ)に黒山賊の討伐を命じました。
これを受けた呂布は、赤兎馬に跨り勇将、成廉(せいれん)魏越(ぎえつ)率いる数十騎で一日に何度も黒山賊に突撃を繰り返します。そして、楽々と賊を蹴散らすと、生首をゴロゴロ抱えて戻ってきました。こんな事が十数日続くと、黒山賊は呂布を恐れ、とうとう分裂状態になり百万人もいた軍勢は雲散霧消してしまったのです。勢い猖獗(しょうけつ)を極めた黒山賊は、呂布と数十騎により崩壊した事になります。
袁紹の敗北後、冀州を支配した曹操に帰順する
力を失った張燕は、袁紹の報復を恐れて逃げ回っていましたが、官渡の戦いで曹操(そうそう)が袁紹を撃破し袁紹が病死すると、張燕は曹操に対し使者を送り「天下統一の王業を助けたい」と申し出ます。
曹操は張燕の帰順を受け入れ平北将軍、安国亭侯に封じ食邑500戸を与えます。袁紹が死んだとはいえ、北方には袁尚(えんしょう)、袁熈(えんき)、袁譚(えんたん)が存在していて、何らかの事で結びつく事を恐れたのでしょう。また、張燕が反袁紹であり、後漢王朝により官位を与えられていた事も幸いしたのかも知れません。こうして、張燕は乱世を読み切り、最期は曹操の部下として天寿を全うしました。
三国志ライターkawausoの独り言
時勢を掴んで大勢力になった山賊の末路は、大抵思い上がって王や皇帝を自称し自滅するというのが圧倒的ですが、黒山賊の総帥である張燕は時勢を見る目がありその時代の権威を上手く利用して生き残る事に成功しました。黄巾賊と同時期の蜂起ですが、その最期は対照的であると言えるでしょう。
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