西暦184年の甲子の年に反乱を起こした武装集団は?と言えば、少し三国志に詳しい方であれば黄巾賊(こうきんぞく)と即答すると思います。
しかし、実際はブーなのです、確かに黄巾賊も蜂起しましたが、その裏で黄巾賊を遥かに上回る山賊集団が蜂起していました。黒山賊(こくざんぞく)というのがそれで最盛期には百万を数えて猛威を振います。その頭領こそが、今回の主人公、張燕(ちょうえん)です。
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趙雲と同郷、張燕乱世に暴れ回る
張燕は元の名を褚燕(ちょえん)と言い、常山真定の出身です。そう、あの趙雲(ちょううん)と同郷なのですが、どうやら出自は貧民であるようです。西暦184年、黄巾の乱が起きると、張燕はそれに乗じて不良青年を千名程集めて、山や沢の中にあって掠奪行為を繰り返します。
張燕は動きが素早く勇敢である事からたちまち人望を集めていき仲間からは、飛燕(ひえん)のあだ名で呼ばれました。日本語で言えば「ツバメの張」くらいの意味でしょうか。黄巾賊の猛威もあり官軍の討伐の手も回らない事で、張燕の仲間は次第に増えていき、真定に戻る頃には1万の山賊の頭でした。
張牛角と連合して廮陶を攻める
その頃、博陵(はくりょう)でも、張牛角(ちょう・ぎゅうかく)という男が不良青年をまとめ将兵従事となのり山賊化していました。牛角という名前からしてあだ名っぽいので、恐らく本名ではないでしょう。張燕は、この張牛角と連合して牛角を将師として副官になりました。こうして数万の大軍になった山賊連合は廮陶(えいとう)を攻めます。
こそこそ、山や谷で略奪をするのではなく歴とした城市を攻めたのです。数万という大勢が彼等に度胸を与えたのでしょうし、ここまで味方が増えれば小さな掠奪では間にあわないでしょう。
しかし、この攻城戦で張牛角は流れ矢にあたり呆気なく戦死します。死ぬ間際に牛角は部下を集め、これからは張燕に従うように命令したので以後、張燕が山賊を率いる事になります。
張燕は勢力を伸ばし黒山賊100万の頭領になる
張燕は、数万の仲間を食わせる為に頻繁に掠奪を繰り返しつつも同時並行で各地で蜂起した大小の山賊勢力の一本化を進めるようになります。すでに黄巾賊が討伐されていて、いつ官軍の矛先がこっちに向くか分かったものではないので、大同団結して窮地に備えようとしたのです。
張燕の呼びかけに常山、趙郡、中山、上党、河内の山賊は連帯します。元々、大半は食いつめて蜂起したのですから、頼りになるボスを欲しがったのです。山賊団の頭領であった孫軽(そんけい)王当(おうとう)は各々賊を率いて張燕に続々と従い、総数は百万に至って黒山軍(こくざんぐん)と名乗りました。張角が起こした黄巾賊が36万人ですから、その3倍弱が張燕をボスとして結集した事になるのです。
霊帝は黒山賊を討伐して失敗、そこで張燕は・・
さすがに100万になった黒山賊を放置する事は出来ません。霊帝(れいてい)は討伐軍を送り込みますが、全く歯が立ちませんでした。通常なら、ここで独立して王朝を建国する所ですが張燕はそうはしません。逆に使者を洛陽に送り帰順を表明したのです。
黒山賊を討伐できず面目を失っている今がチャンスという思惑ですが、これが的中、霊帝は張燕を平難中郎将(へいなん・ちゅうろうじょう)へと任命しました。この地位は有能な人材を孝廉(こうれん)で中央へ推挙できる立場であり事実上後漢王朝は張燕の実効支配を黙認した事になります。
もちろん、張燕の立場に変更はなく従来通りで、今後は後漢王朝の権威を背景に合法的に支配下の河北諸郡から年貢を獲れるようになります。武力だけではなく時勢を読む力に優れた張燕の一面が分りますね。
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