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【シミルボン】ええっ!そうなの?陳寿の三国志が簡潔な本当の理由

2017年2月17日


 

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シミルボン

 

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蜀の産まれ 陳寿

 

陳寿(ちんじゅ)が著した正史、三国志は信憑性が高い文献だけを

厳選して載せていて、かつ、すっきり簡潔である事から名著だと言われています。

いかにも、簡潔な記述だと無駄を省いたようで凄くジャーナリスティックですし

文章を練りに練って推敲を重ねたように見えます。

ところが、一説では、陳寿が記述を簡潔にした理由は別にあったようです。

それは、あまり内容には関係が無い、むしろ本の編纂の上の都合だったようです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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清の陳澧が喝破した陳寿の本音

 

その陳寿の隠された真意を喝破したのが清の陳澧(ちんれい)でした。

彼は、陳寿は蜀びいきであり、蜀漢の人材を詳しく書こうと思った、しかし

蜀の文献は極めて少なく、魏はおろか、呉にさえも見劣りしてしまう。

そこで、魏や呉の文献を減らす事で蜀とつりあいを取った。

などと言うように主張しています。

 

つまり、陳寿は正確性を重んじて信憑性が低い文献を削り簡潔な文章を

目指したのではなく、蜀の記録が乏しいので魏も呉も簡潔な文章にして

バランスを取っただけだと言うのです。

にわかには信じがたい話ですが本当にそうなのでしょうか?

 

実際に、魏・呉・蜀の文字数を比較してみると・・

李儒と三国志

 

では、三国志を構成する魏志、呉志、蜀志の文字数を調べてみましょう。

魏志207、000文 呉志 103、000文字に対し、

蜀志は、57、000文字となっていて、蜀志は魏志の4分の1、

呉志の2分の1しかありません。

 

三国志の一角を占めながら、分量は全体の2割未満というのでは、

確かに蜀書は分量が圧倒的に少ないと言えます。

 

比率で言えば、魏志は56%、呉志28%、蜀志は16%になります。

これでも資料が多い魏と呉はかなり削っているようです。

そこまで削っても蜀の資料は見劣りがしますから、遠慮なく資料を

収録するようなら、蜀志は附録のようなみすぼらしいものになるでしょう。

 

陳寿は蜀びいきばかりではなく、本の体裁を整える為にやむを得ない

そういう部分もあったと言えるでしょう。

 

あの魏志倭人伝は陳寿が書いた正史三国志に収録

陳寿029

 

ちなみに魏志の分量が圧倒的に多いのは資料が多いばかりではなく

魏志は、正当な王朝とされた位置づけで、魏の人物ばかりではなく後漢の人々や

同時代の魏のライバルの群雄の伝や周辺地域の国の記述があるからでもあります。

 

ちなみに定期的に論争を引き起こす日本史の教科書で有名な、

邪馬台国を記述した魏志倭人伝は、この魏志に掲載されているというのは、

意外に知らない人も多いのではないでしょうか?

陳寿は、表には出ませんが日本人の歴史にも大きな影響を与えているのです。

 

陳寿に欠けていた視点とは?

曹操 機密保持

 

三国志の時代の群像劇を活写していると言われている陳寿の三国志ですが、

一方で欠点も存在しているようです。

それは、陳寿が三国志の登場人物のやりとりや長々とした上奏文は載せながら

曹操が天下の覇権を握るようになった屯田(とんでん)制度や官吏登用の基本になった

九品(きゅうひん)官人法などの三国志の時代に起きた大きな制度上の事を詳細に

記録するという事が無かった事です。

 

屯田制を建議したのは、棗祇(そうし)という人で、九品官人法を建議したのは

陳羣(ちんぐん)ですが、陳羣は伝があるにも関わらず制度については一行程度の記録

棗祇に至っては、大功労者であるにも関わらず、個人の伝がなく、

武帝紀(ぶていき)や任峻(じんしゅん)伝に僅かに記録があるだけに過ぎません。

 

せめて陳寿が、陳羣や棗祇の出した建議の書を記録するだけでも、

三国志の時代の制度の研究は進んだであろうに、惜しい事です。

もっとも、陳寿の三国志は、私撰で国の要請で編纂されたものではないので

自分にとって関心がない部分は省いたのも無理からぬ事ではあります。

参考文献:三国志きらめく群像

著者: 高島 俊男 出版社: 筑摩書房

 

シミルボン

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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