曹操・曹丕・曹叡の三代の英雄に仕えて曹魏の根幹を作り出した王朗(おうろう)。
三国志演義では北伐に出陣した諸葛孔明と論戦を行いますが、
孔明に敗北してそのまま亡くなってしまいます。
そんな彼ですが若い頃孫策と戦い敗北しそのまま捕虜となってしまいます。
その後孫策に説得されても決して孫策に仕えないと覚悟を固めていたため、
孫策によって監禁されてしましますが、
このことによって彼の運命が大きく変わっていくことに・・・・。
今回は普通の三国志の話に飽きてしまった人たちのために、
三国志のマニアックな武将の出来事を初心者にもわかるようにお教えしましょう。
陶謙(とうけん)に仕える
王朗は経書(けいしょ)に通じていることから後漢王朝から県長の役職を拝命。
彼は役人となって民衆達がより良い暮らしができるように、
いろいろな政策に取り組んでいくのですが、
師匠である楊賜(ようし)が亡くなった事を知ると官職を捨てて、
師匠のために喪に服することになります。
喪が明けると陶謙(とうけん)から誘われて彼の部下となって働くことになります。
会稽の太守に任命される
王朗は陶謙の部下となると同僚の趙昱(ちょういく)と一緒に陶謙へ進言。
彼らは陶謙に「天下に多くの諸侯が立ち並んでいる状態ですが、
その諸侯達に自らの意思を押し通すとなれば、
勤王の志を持っていることを示せば、諸侯達へ意思を通す際非常に便利です。
そこで陶謙様には西の都に居る皇帝陛下に、
使者を発して命令を受けるのがいいと考えます。
そうすれば諸侯は陶謙様が勤王の志をもって皇帝陛下を支えるつもりであることが
示されることになるのではないのでしょうか。」と提案。
この提案を採用した陶謙はすぐに趙昱を皇帝の元へ遣わします。
その結果皇帝は陶謙の気持ちに感謝し彼に将軍の位を与え、
趙昱には広陵(こうりょう)の太守を。
王朗には会稽(かいけい)の太守が与えられることになります。
王朗は会稽太守に任命されると早速任地へ赴くことにします。
孫策軍に敗北し・・・・
王朗は会稽(かいけい)に赴いてこの地で民衆達に対して政治を行っていきます。
そんな中孫策が袁術の元を離れて江東へ進出し、
次々と各地の太守を蹴散らして領土を拡張していきます。
そして王朗が統治している会稽近辺に孫策軍が進出してくることになります。
王朗の部下であった虞翻(ぐほん)は彼へ
「勢いのある孫策軍とぶつかるのは良くないです。
ここは彼の勢いをやり過ごした方がいいでしょう」と進言。
しかし王朗は虞翻の進言を採用しないで自らが統治している会稽を守るために孫策軍と
戦うことにします。
こうして王朗は孫策軍がやってくると迎撃態勢を整えて戦いを挑みますが、
孫策軍にフルボッコにされてしまい捕虜になってしまいます。
監禁される王朗
王朗は孫策軍の捕虜になると孫策から厳しい詰問を受けることになります。
彼は孫策に降伏することが遅れたことをしっかりと謝罪しますが、
彼の家臣にはならない事を言明。
孫策は彼が謝罪してきたので許しますが、
江東から外へ出ることを禁じて曲阿(きょくあ)という土地に監禁してしまいます。
運命の君主に出会う
曹操は会稽太守で有能であった王朗が曲阿で監禁状態の生活を続けていることを知ると
皇帝に召し出すように要請。
孫策は皇帝から命令を受けると王朗を解き放つことにします。
こうして一年ほど王朗は曲阿で監禁状態で生活しておりましたが、
曹操によって助けられた事がきっかけで彼へ仕えることになります。
こうして王朗は曹操に監禁状態から救い出され、
彼の運命を大きく変えることになる君主・曹操に仕えることになります。
三国志ライター黒田レンの独り言
王朗は曹操に仕えるとある日曹操から「孫策はどのような人物なんだ」と質問されます。
すると王朗は「孫策は武勇・才能に優れている人物です。
また部下には政治を得意とする張昭(ちょうしょう)が彼を助け、
長江・淮水一体を制覇した英傑・周瑜が武将として彼を補佐。
このように優れた武将を持つ有能な君主・孫策が野望をもって動き始めれば、
殿にとって大いなる災いになるのではないのでしょうか」と高評価を与え注意を促します。
孫策の捕虜となっても見るべき所はしっかりと観察していた王朗でした。
さて彼も華歆(かきん)同様運命の君主である曹操に仕えることになるのですが、
しっかりと活躍することができたのでしょうか。
王朗のその後は後日ご紹介していきたいと思います。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書2 今鷹真・井波律子著など
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