織田信長の父・「尾張の虎」こと織田信秀の前半生に迫る

2017年3月19日


 

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織田信長の父親って誰だかわかりますか。

そうなんです!!曹操は知っているけども息子の曹丕は知らないような状態です。

信長の父親は織田信秀(おだのぶひで)と言って戦場で知られる武将でありながら、

あるからくりで大国と張り合うほどの兵力を持っておりました。

今回は織田信秀の前半生についてご紹介しましょう。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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下部組織の織田家の嫡男

 

織田信秀は尾張守護の織田家一族のその下の尾張の4郡を支配する織田家の傍系の一族です。

そのため信秀の父親から家督を譲ってもらった時には全然領土なんていうものはありませんでした。

信秀はこのまま下部組織の一員として落ちぶれていくのは絶対に嫌だと感じ、

絶対に今の地位から上昇していくことを夢見て色々と行っていきます。

 



尾張今川氏を謀殺

 

駿河(するが)には東海の覇者たる地位を確立することになる今川家がありあますが、

尾張(おわり)にも今川家が存在しておりました。

尾張今川家は那古野城(なごやじょう)を拠点としておりました。

信秀はこの尾張今川家の当主であった今川氏豊(いまがわうじとよ)と連歌などを行い、

友人として接していきます。

そして信秀は氏豊と結構な期間親しく連歌仲間として付き合って行き、

彼の居城である尾張・名古屋城で連歌の会が開かれた時に彼を殺害して、

そのまま那古野城を奪っております。

こうして尾張に足がかりを作ることに成功した信秀は、

近隣の城を攻略して行って着実に勢力拡大に勤めていくことになります。

また信秀は武勇にのみ優れていたのではなく、行政面でも非常に優秀な政策を行っております。

 

経済官僚としても優秀な信秀

 

信秀は経済官僚としても非常に優秀であり尾張の半分を制圧した頃は

たった14万石程の大名でした。

信秀は14万石しか無いにも関わらず伊勢神宮を修理する費用を寄進しており、

その額はなんと700貫でした。

ついでにこの700貫現代の価値に直すと大体7000万程の価値があるそうです。

そして信秀の領土を現在の価値に直すと大体140万程度の収入しかありませんでした。

あれ??信秀破綻しておるじゃないですか。

と思った方はちょっと違うんです。

信秀は土地から手に入る収入以外にも強力な収入がありました。

その収入は津島の商人と津島神社から上がってくる経済的な利益を全て吸収していたためです。

その代わり信秀は津島商人には保護することを約束するとともに津島神社には

津島商人達から課税権を受ける権利を貰い受けます。

こうして信秀は津島商人と津島神社から上がってくる利益を手に入れることで本領である尾張

14万石に津島経済から上がってくる利益をプラスすると大体40万石ほどの大名と

肩を並べるくらいの実力を持っていたそうです。

このような経済システムを作り出すことによって織田軍は飢饉で土地から収入が減っていても

経済は飢饉では減ることがありませんでした。

信秀は上記のシステムを作ることのできた武勇と経済官僚の二つの顔を持った人物でした。

 

三河へ侵攻

 

尾張の半分を手に入れた信秀は軍勢を率いて隣国である尾張へ攻撃を行います。

この地は松平家が支配していたのですが、

当時の松平家の当主である清康(きよやす)が家臣に謀殺されて亡くなってしまいます。

信秀は松平家の混乱に乗じて三河・安祥城(あんじょうじょう)を攻略することに成功。

そしてここから駿河の今川氏と対立することになります。

 

戦国史ライター黒田レンの独り言

 

織田信秀は武勇に優れていた人物で当時近隣の大名から「尾張の虎(おわりのとら)」として

恐れられていたそうです。

またあだ名からだと武勇に偏った武将のようなイメージがありますが、実際は経済官僚としても

非常に優秀であったことが記事を読んでいただくとわかると思います。

信秀は頭が良くてインテリだけど絡んでみたら意外と強い虎だったのではないのでしょうか。

 

参考文献 戦国外伝 桶狭間戦記 宮下英樹著など

 

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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