【戦国時代と三国時代の類似点】権力者に抵抗して戦い抜いた曹髦と織田信孝

2017年2月22日


 

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司馬懿と公孫淵

 

三国時代に突入すると・呉・蜀の三国は天下の覇権をかけて争い続けます。

魏では二代目皇帝が亡くなると、司馬懿がライバル曹爽(そうそう)を

蹴落として魏最大の権力者としての地位を確保。

司馬懿の死後息子である司馬師(しばし)は父が確保した権力を拡大していくことに注力していき、

司馬師が亡くなると、三男・司馬昭(しばしょう)が司馬師が拡大した司馬家の権力の基盤をしっかりと

固めていきます。

司馬昭の時代に司馬家の権力増大を憎んで、反抗した皇帝がおりました。

その人物の名を曹髦(そうぼう)といいます。

そして日本の戦国時代にも織田信長が築いた天下最大の勢力織田家の地位を奪い、

自らが織田信長に取って代わり天下人となっていた豊臣秀吉と戦った人物がおりました。

その名を織田信孝(おだのぶたか)と言います。

二人ともマイナーな武将ですが、彼ら二人にスポットライトを当てて行きたいと思います。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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武は曹操・知は曹植と言われた若き皇帝

司馬師

 

曹髦は曹丕の孫でしたが帝位に就くまでその存在はあまり知られていませんでした。

司馬師はこの人物がどのような人か鍾会(しょうかい)に偵察してきてもらいます。

鍾会は曹髦の人となりとを観察すると司馬昭の元へ行き

「陛下は鋭気はつらつとしており、武は曹操様。知は曹植様に似ているのと思います」と

報告。

この報告を聞いた司馬師は「君の言うとおりであれば魏の国は安泰である」と頷きながら

答えます。

こうして彼の評判はもの凄く良く家臣達はこの若き皇帝が魏の国を安泰へ導いてくれるであろうと

期待しておりました。

 

名族神戸氏をついで領地経営に善政を敷く若殿

織田信長01

 

織田信長の三男として生まれた信孝。

彼は信長が伊勢の国を平定した際、

この土地の名族である神戸氏(かんべし)の当主を強制的に隠居させて、

信長の命令によって信孝は養子に出されます。

神戸氏の養子となった信孝は神戸信孝と名乗ることとなり、

伊勢地方を信長から領地としてもらいます。

彼は伊勢地方の経営に精を出していき、

信長が行った楽市楽座制作を取り入れて経済を活性化させていきます。

また物流を活発化させる為に伝馬制を導入。

こうした彼の領地経営の努力の結果、伊勢の国は多いに栄えていく事になります。

信長にどのような評価をされていたのかわかりませんが、

まだ元服前の少年に伊勢の国を与えていたのですからそれなりに評価をしていたと考えられます。

また家臣からも大いに織田家を支えていく若殿と見られていたのではないのでしょうか。

 

司馬家の専横に嫌気が差して学問に凝る

司馬懿

 

曹髦は「武は曹操・知は曹植」と高評価を得ていたのにも関わらず、

自ら政権を動かすことはできませんでした。

その原因は司馬家一族にあります。

司馬家の当主であった司馬師の時代には彼は自ら決断して、

政権を動かすことはできませんでした。

しかし彼も若くして帝位についたこともあり、黙っておりました。

その後司馬師が亡くなり司馬昭が跡を継ぎます。

彼はそろそろ政権を自らの意思で動かしていきたいと思っておりましたが、

この期待は裏切られてしまいます。

司馬師死後も皇帝が政権に口を出すことはできず、司馬昭が全てを取り仕切っておりました。

彼は自分の実力を試すことができない状況に嫌気が差して、

元々好きであった学問に凝り始めます。

曹髦は幼少期から学問をしっかりと修めてきており、かなりの知識を持っておりました。

そこで彼は学問好きである家臣を集めてサロンを作ります。

このサロンには司馬望(しばぼう)や鍾会王沈(おうしん)、裴秀(はいしゅう)らを集めて、

文章を作ったり議題を作って議論を盛んに行っておりました。

こうした学問漬けの日々を過ごしていきますが、

司馬家が政権を握っている現状は変わることはなく曹髦の不満は募っていくばかりでした。

 

曹髦とは対照的に実力を見せつけていく信孝

 

神戸信孝(かんべのぶたか)は曹髦(そうぼう)と違って着実に実力を見せていきます。

彼は本願寺(ほんがんじ)が扇動した伊勢長島の一向一揆戦や加賀一向一揆、

荒木村重討伐戦などに参加して、武功を上げていき大いに活躍します。

また戦以外でも活躍しており、

武田征伐戦では武田家の家臣である木曽義昌(きそよしまさ)の寝返りの仲介などを行っています。

こうして諸方で活躍していた信孝に父・織田信長から

「四国征伐の総大将に任命する。大いに励め」と言われます。

父である信長から認められた瞬間でした。

そして織田家家臣団の家老である丹羽長秀(にわながひで)と共に、

四国へ渡る準備をしている最中、天下がひっくり返る事件が発生します。

その事件は本能寺(ほんのうじ)の変です。

明智光秀が織田信長に対して謀反の兵を挙げて、

彼を殺害してしまうみなさんもよく知っている大きな事件です。

この事件以降、信孝の人生は大きく変わっていくことになります。

 

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我慢の限界・・・・そして決断

 

曹髦は司馬家の専横している現状から逃げるために学問を行いますが、

やはり現状を変えたいと感じていおりました。

しかし司馬昭は一向に彼を政権の運営者として、政権に関与させることはありませんでした。

この現状を数年間我慢しておりましたが、ついに彼の我慢も限界に達します。

そして学問仲間である王沈(おうしん)、裴秀(はいしゅう)と側近である王経(おうけい)らを呼び

「民衆は司馬家が魏から天下を簒奪しようと企んでいることを知っている。

このままおめおめと司馬家に屈して魏王朝をくれてやる筋合いはない。

そこでだ。今日ここで司馬家討伐の兵を挙げたいと考えている。

君たちと共にあの傲慢な男を討伐しよう」と誘いかけます。

曹髦の学問仲間であった王沈と裴秀はこの言葉を聞いて唖然としておりました。

しかし側近である王経は「陛下。司馬家が軍権を握っている現在、

挙兵しても勝ち目はないでしょう。」と反対意見を述べます。

だが曹髦の意思は固くこの反対意見を黙殺して、挙兵の準備を行っていきます。

そして準備が整うと司馬家討伐へ出陣することにします。

ついでにこの時集まった兵には正規軍と呼べる兵士はほとんどなく、

召使いが数百人程度集まっただけでした。

 

 

いきなり秀吉の攻撃を受けて・・・

 

羽柴秀吉は織田信長を討った明智光秀を討伐して、信長の仇討ちに成功。

この時、信孝は総大将として秀吉とともに戦いますが、

この戦いの後に行われた織田家の後継者を決める会議である清洲会議(きよすかいぎ)で、

次男信雄(のぶかつ)と信孝は信長の後継者として選ばれる事はありませんでした。

では誰が信長の後継者の地位についたのでしょうか。

信長の後継者となって織田家を背負うことになったのは、

信長の嫡男の息子で織田信忠(おだのぶただ)の息子である三法師と呼ばれる人物でした。

しかし彼はまだ元服もしていない幼い子供であったため、

信孝と織田家筆頭家老である柴田勝家(しばたかついえ)が後見人となって、

織田家を運営していくことに決まります。

またこの会議では誰が領地を加えることにするのかも議論されており、

この議論の結果、信孝は岐阜城を領有することになります。

だが実際に織田家を運営していったのは信長の仇を取った秀吉でした。

こうして清洲会議は終わりますが、

この会議が終わって数ヵ月後いきなり秀吉から岐阜城を攻撃されてしまいます。

なぜ秀吉が攻撃を仕掛けてきたのかは不明ですがこの攻撃がいきなりであったため、

信孝は抵抗できずに秀吉へ降伏することになります。

この時、秀吉に自分の母親と娘を人質として取られてしまいます。

信孝の母親と娘は後日秀吉の命令によって殺害されてしまいます。

信孝は秀吉に降伏しますが、母と娘が殺害された事実を知ると秀吉を大いに憎み、

彼を討伐する機会を伺います。

 

司馬家討伐戦開始

 

曹髦(そうぼう)は司馬家討伐の為に挙兵します。

しかし集まったのは召使いが数百人程度でした。

だが彼は構わず司馬昭が住んでいる屋敷へ向かって突き進んでいきますが、

彼を迎撃して追い返そうと軍勢が遮ってきます。

曹髦は迎撃に出てきた軍勢に対して「どけ!!」と先頭に一喝すると、

この軍勢は道を開いて去っていきます。

曹髦はこの状態を見てこのまま行けば司馬昭を討伐できると確信したのか、

自ら先頭にたって軍を率いて司馬昭の屋敷を目指していきます。

 

再度秀吉と戦う決意を固める

 

織田信孝(おだのぶたか)は伯母であるお市の方が柴田勝家(しばたかついえ)の元へ嫁いだ際に、

仲立ちをしておりました。

この関係から信孝と勝家は同盟関係を構築。

そして柴田勝家が羽柴秀吉を討伐するため軍勢を率いて北陸から出陣します。

信孝は勝家が秀吉と対決する為に出陣したことを知ると、彼も再び秀吉に反旗を翻します。

こうして勝家と信孝は秀吉を挟撃する体制を整えます。

秀吉は信孝を討伐するため自ら軍勢を率いて岐阜城攻略戦へ出陣。

彼は岐阜へ向けて行軍しておりましたが、

前夜来から続く大雨によって大垣城近辺を流れている揖斐川(いびがわ)が氾濫してしまいます。

そのため彼は揖斐川の水位が下がるまで、大垣城(おおがきじょう)に留まることにします。

柴田勝家は秀吉が大垣城に駐屯している事を知ります。

この事を知った柴田家の武将である佐久間盛政は勝家に

「秀吉が信孝様討伐へ出陣している間に、

賤ヶ岳に布陣している秀吉軍を蹴散らしてしまいましょう」と進言。

彼はこの意見を採用して賤ヶ岳(しずがたけ)に布陣している秀吉軍へ猛攻を行うように、

盛政へ命じます。

盛政は勝家から命じられると軍勢を率いて秀吉軍へ猛攻を開始。

この攻撃によって秀吉軍は一時的にですが、危機的状況に陥ることになります。

 

賈充の軍勢に殺害されてしまう皇帝

 

曹髦は再び自分の軍勢を遮ってくる軍が出現したため、大声で「そこをどけ」と命じます。

すると彼らはこの声に反応して、一時的に怯みますが曹髦の軍勢を通しませんでした。

この軍勢は司馬昭の側近である賈充(かじゅう)が率いている軍勢でした。

彼は前線で曹髦の軍勢と対峙している成済(せいさい)へ

「お前ら何をしているとっとと軍勢を蹴散らせ。」と命令します。

成済は賈充へ「皇帝陛下はいかがいたしますか。」と質問。

賈充は「殺してしまえ。君らに罪は及ばないようにする」と命じます。

この命令を聞いた成済達は曹髦軍へ攻撃を仕掛けます。

曹髦は自ら剣を奮って奮闘しておりましたが、成済の戟に刺されてしまい亡くなってしまいます。

皇帝が亡くなったことを知ったこの軍勢は一斉に散っていきます。

こうして曹髦が起こした司馬昭討伐戦はあっけなく幕を下ろすことになります。

 

勝家の敗北によって降伏。そして・・・・

 

柴田勝家の武将である佐久間盛政は次々に秀吉軍を撃破していき、

本営である賤ヶ岳砦へ猛攻を仕掛けます。

しかし秀吉は盛政が賤ヶ岳砦へ猛攻仕掛けている最中に大垣城から戻ってきます。

秀吉が戻ってきたことによって秀吉軍は息を吹き返し、盛政へ総攻撃を開始。

この総攻撃によって佐久間軍は大敗。

そして柴田勝家も味方が独断で戦線離脱していったことがきっかけで軍が崩壊。

そのため勝家は賤ヶ岳から居城である北之庄へ退却します。

その後勝家はこの城を包囲した羽柴軍に抵抗するも、

城へこもった人数は数百人程度しかいなかったため、

城に火を放って自害します。

信孝は勝家が敗れ去った事を知ると岐阜城を包囲していた

兄・織田信雄おだのぶかつ)に降伏します。

秀吉は信孝が降伏してくると彼を幽閉し、信雄へ「信孝に自害するように命じよ」と命令。

信雄は弟である信孝に自害を命令。

信孝は自害する前に「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前

(ここで自刃する私の恨みは深いぞ秀吉)」と恨みのこもった辞世の句を残して自害します。

 

三国志ライター黒田レンの独り言

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曹髦と織田信孝を今回は紹介しました。

曹髦と織田信孝は権力者に牙を向いて戦いを挑んだ点が似ております。

また彼らは時の権力者達に従順に従っておれば、生き残っていた可能性は高かったでしょう。

しかしともに権力に近い所で育ってしまった為、プライドを捨て去ることができずに権力者に対して、

反旗を翻して亡くなってしまいます。

「今回の三国と戦国のお話はこれでおしまいにゃ。

次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。

それじゃ~またにゃ」
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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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