ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志ハイ!!」のコーナーです。
今回から数回に渡り、曹操と孫権の戦いについてお伝えしていきます。
有名な「合肥の戦い」です。
これは西暦208年の赤壁の戦いに次ぐ大きなぶつかり合いでした。
約10年間にも及ぶこの両者の激突はさまざまなドラマを生みました。
赤壁の戦いは知っているけど、合肥の戦い?という方はぜひ注目してください。
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西暦208年赤壁の戦い
「赤壁の戦い」は三国志のなかでも最も有名な戦いです。レッドクリフで映画にもなりました。
実は「合肥の戦い」はこのすぐ後から始まっているのです。
赤壁の戦いが西暦208年10月とされています。合肥の戦いが幕開けしたのが11月です。
孫権は曹操に赤壁の戦いで大勝した直後にさらなる動きをしていたのです。
このとき孫権は曹操の領土である合肥を自ら兵を率いて攻略に乗り出しています。
重臣の張昭にはその援護として寿春よりさらに北の当塗を攻撃させています。
つまり荊州だけではなく、揚州の北部の制圧も同時に行ったのです。
このとき荊州の制圧には周瑜を向かわせています。
孫権の合肥包囲はこの周瑜への援護の意味もあったそうです。
当時の周瑜は江陵の曹仁と戦っていました。
しかし曹操の援軍が合肥に向ってきたことで、城の包囲を孫権は解きます。
第一の功労者
合肥の戦いの第一の功労者が揚州刺史である劉馥です。
彼は曹操の配下です。
劉馥は荒れ果てた揚州を立て直そうと合肥に入り、州都を開きます。
仁政を敷き、民衆の信頼を得ることに成功しました。
劉馥はこの西暦208年に亡くなっています。孫権が進撃してくる以前の話です。
しかし彼が備蓄した兵糧や築いた砦、堤防などが一ヶ月に渡る籠城の原動力となったのです。
劉馥の8年間に及ぶ努力なくして合肥の防衛は成り立ちません。
よって、すでにこの世を去っていたとはいえ、合肥の戦いの第一の功労者となるわけです。
兵糧不足の解消
約10年もの間ぶつかり合う両者ですが、住民たちにとっては迷惑千万です。
曹操は住民たちを安全な北方に避難させようとしましたが、
それに納得のいかない長江沿岸地域の住民たちは孫権の領土に逃散してしまいます。
その数なんと10万人以上。
お陰で合肥周辺から住民の姿が消えてしまいました。
こうなると現地での兵糧の調達が難しくなります。
曹操は得意の屯田を開始するのです。
合肥より北にある芍陂あたりになります。
時期でいくと西暦209年3月に曹操は豫州で水軍をまとめ、
7月には淮水から肥水と進んで芍陂、合肥に到着しています。
従軍した部将は「張遼」「楽進」「李典」といった名将たちです。
しばらくのにらみ合い
その後、しばらくにらみ合いが続きます。
12月には周瑜が曹仁を破り、江陵を奪い獲りました。
孫権にしてみれば予定通りに事が進んでいます。
周瑜はこのまま益州を目指す手はずでした。その間に孫権が合肥を奪い獲ります。
つまり揚州、荊州、益州といった中華の南をすべて手中に収めることになるわけです。
おそらく徐州の一部も入ってくるでしょう。
孫権の領土はあっという間に曹操に肩を並べるようになります。
この時はまだ西には馬超や韓遂もいます。連合すれば曹操を討つチャンスも見えてきます。
孫権はさらに石橋を叩いて渡るように劉備との同盟を強固なものとします。
自らの妹を劉備と娶せたのです。孫権と劉備は兄弟となりました。
こうして気分よく孫権は西暦210年(建安15年)に突入していきます。
しかし曹操も劉備も孫権の思惑通りには動きませんでした。
そしてさらに思いもかけぬ出来事が起こるのです。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
しばらくはこの「合肥の戦い」をテーマにお話を続けていきます。
もちろんこの戦いで名をはせた「張遼」の活躍も詳しくお伝えしていきましょう。
次回もご期待ください。
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