ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志スマッシュ!!」のコーナーです。
前回から曹操VS孫権の10年間に及ぶ戦い「合肥の戦い」についてお伝えしています。
始まりは西暦208年の「赤壁の戦い」があった直後のことです。
西暦209年までの出来事を前回のお話で触れていますので、
今回は西暦210年からの動きに目を向けてみましょう。
周瑜の死
孫権の最大の誤算、それは軍の頂点にいた周瑜(しゅうゆ)の死でした。
益州の攻略のため一度呉郡に戻り、孫権に上進した後、
江陵に戻る途中で周瑜は亡くなります。36歳という若さでした。
周瑜は奮武将軍である孫瑜とともに益州を攻略し、漢中まで兵を進め、
そこを孫瑜に守備させている間に周瑜は荊州の襄陽を攻略するという作戦を立てていました。
ここでは西北の勢力である馬超を味方にして曹操に対することも計画されています。
孫権は一気に強大な勢力になる手はずでした。
しかしカリスマである周瑜の死によってすべてが頓挫します。
孫権は益州の攻略を諦めました。
それが西暦210年のことです。
西暦212年に動く
この年の9月。孫権は長江南岸の秣陵に石頭城を築きます。
前年に孫権は本拠地をここに移していました。完全に合肥攻略の布石です。
そして城を築いた後は、秣陵を「建業」と改称しました。
今でいう南京です。やがては中華民国の首都となる場所ですね。
呂蒙はさらに孫権に提案しました。
曹操が濡須水を通り進撃してくることが予測されたので、その濡須口に砦を築くのです。
それが「濡須塢」です。
ちなみにこの濡須塢はその形が偃月に似ているので
「偃月塢」や「偃月城」とも呼ばれたそうです。
孫権は曹操と戦う準備を万全なものにしました。
そして10月、曹操は40万の兵力を率いて濡須口に攻め込みます。
ここは合肥よりも100㎞以上南の地点です。
10万本の弓矢
40万の曹操軍に対して孫権軍は7万でした。
攻め込んできた曹操軍に西の陣を破られますが、
それ以降は曹操の攻撃を防ぎ、対峙したまま年越しとなります。
曹操は夜陰に乗じて長江の中州に兵を進ませたことがありましたが、
孫権側も予測しており、水軍に囲まれ三千人が捕虜となり、溺死者も数千という被害を受けています。
水軍での戦いはやはり曹操は不慣れだったようです。
そこで隊伍の乱れなく整然としている孫権軍を見て、
曹操は「息子には孫権のような子が欲しい。劉表の息子たちなど豚・犬のようだ」
と感心したといいます。
さらに大胆にも大型船に乗って敵情視察に向かう孫権。
曹操軍は弓と弩で迎撃します。突き刺さった矢の重みで船が傾きましたが、
すぐさま反転し、逆面に矢を受けてバランスをとったのです。
そして悠々と引き上げていきました。孫権の度胸の良さを物語っています。
この逸話が後世、諸葛亮孔明の3日で10万本の矢を集めるという創作に繋がっていきます。
本当は孫権の活躍のシーンだったのですね。
孫権の手紙
こうして西暦211年まで延びた戦いは互いに兵を引くことで終焉しています。
孫権が曹操に送った手紙がそのきっかけになったそうです。
手紙には「春の出水が間近なので早く帰ったほうがいですよ」というものでした。
さらに「あなたが生きているかぎりは私は安心できない」と曹操をもちあげます。
曹操は苦笑いを浮かべながらも、今回は一度引こうと決断し、撤退しました。
孫権の手紙から曹操を敬っていることが伝わってきたからだとも伝わっています。
40万VS7万の戦いは引き分けに終わります。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
しかし「合肥の戦い」はまだまだ続きます。
おそらく皆さんがご存知の両陣の衝突はこの後の話になります。
なんとここから孫権は攻めに転じるのです。
張遼の活躍もそろそろですね。
次回をご期待ください。
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