中国人にとって、茶は文化であり、飲茶とあわせ生活から茶は切っても切れません。
この中国の緑茶が貿易を通じてイギリスに伝わり、イギリスの紅茶文化が出来た程です。
そんなお茶、三国志の時代にも既にありましたが、今とは違う形だったのです。
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存在はしていたが、飲む人がいなかったお茶
三国志の時代の飲み物と言えば、水を除けば、漿(こんず)、医(い)、
涼(りょう)酏(し) 醴(らい)というような記載があります。
漿というのは簡単に言うと薄い粥です、それ飲み物か?と思いますが、
お腹に溜まる飲み物として周の時代はポピュラーでした。
医というのは、梅サワ―で、涼は氷水、醴は黍(きび)に麹を加えたもので甘酒、
酏は、その甘酒をさらに発酵させたもので、黒くドロドロで糸を引いていました。
こちらは本当に甘いのですが、甘過ぎて人気がなく歴史から姿を消します。
このようにお客をもてなすのは、以下の5種類の飲み物で、まだ茶は、
食卓に上るものではありませんでした。
しかし、茶そのものは存在していて、詩経には、以下の記述があります。
「茶(にがな)を采(と)り樗(ぬるで)を薪にす」
「予(よ)が茶を捋(と)るところ」という言葉があり、
茶が現在のお茶であると考えられています。
現在のお茶は、檟茶と言った
現代に通じるお茶は、檟(にが)茶と言われていたようです。
晋の時代には、早采りを茶と言い、番茶を茗(みょう)と区別していました。
周礼には、掌茶の官が置かれていましたが、それでも周から秦にかけて、
お茶が一般に飲まれる事はありませんでした。
しかし、前漢に入ると、王褒(おうほう)という人物が「茶を烹(に)具を尽くす」や、
「武陽に茶を買う」という記述を残していて、ようやくお茶が飲まれだします。
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酒の代わりに茶で誤魔化した韋曜
孫呉に仕えた韋曜(いよう)は茶を飲んだという記録があります。
しかし、彼の場合には、好きで茶を飲んだのではなく、暴君孫皓(そんこう)が
客1名につき7升の酒を強制的に飲ませるのを恐れ、酒を茶に替えて誤魔化したのです。
黄色い茶でお酒を誤魔化せるのか?と考えてしまいますが、当時の酒は清酒ではなく
黄色く濁っていたので、お茶で誤魔化せたのです。
つまり、韋曜は茶が好きなのではなく、お酒を免れる方便だったかも知れません。
その後の晋の時代には、王蒙(おうもう)という人がお茶好きとして知られました。
彼は、自宅で宴会を催すと、酒の代わりにお茶を出したので客には大不評で
「また水を飲まされるのか」と客は陰口をたたいたそうです。
晋の時代になっても、お茶は、まだ好きな人の飲み物でしかありません。
古代のお茶が人気無い理由
お茶は唐の時代に入り、ようやく一般にも飲まれるようになりますが、
当時は、これという製法も無く、なんと、茶の芽を摘んでは、
野菜と一緒に煮て飲んでいたと言われています。
つまり、唐の時代の初期は今のように茶葉を発酵させて、
香りと味を強くしなかったわけで野菜の延長線の上に茶はあったのです。
道理で、王蒙の客が、「また水を飲まされるのか」とボヤくはずで、
ほとんど味がしないのですから、普及するわけありません。
やがて、唐には茶聖、陸羽(りくう)が現れ、「茶経」を書きしるして、
正しいお茶の製法を広めるようになると、茶は爆発的に普及して、
唐朝は茶税を税金として徴収するようになりました。
三国志ライターkawausoの独り言
三国志演義には、劉備が先祖伝来の家宝を売って、茶が好きな母に、
お茶を買ってくるシーンがありますが、仮にそれが事実としてあっても、
発酵させる事なく、野菜と一緒に煮て出した薄いお茶だったのでしょう。
それでも味覚が繊細な人は、漢の時代からいて、茶の味を感じられたようですから、
いやいや、人の味覚というのは、凄いものです。
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