戦争に強い事と、熱心な人材スカウトがよく取り上げられる曹操(そうそう)ですが、当人は、それより何より文化人として歴史に名を成したいと思っていました。「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」とは曹丕(そうひ)の言葉ですが、たかだか、数百年では消えてなくなる国家よりも、人の世が続く限り永遠に受け継がれる文学こそ、価値があると曹操も考えていたのです。
そして、曹操は、それまでの漢詩に新しい解釈を与えて刷新しました。現在、私達が知る漢詩とは基本的に曹操が産み出したものなのです。
曹操以前の漢詩とはどういうもの?
漢詩は、三千数百年の歴史があり、黄河流域で読まれていた民謡がルーツです。元々はメロディーがあって、後に漢詩がついたもので、日本で言えば、佐渡おけさとか、会津磐梯(ばんだい)山とかをイメージすればいいでしょう。
春秋戦国時代、漢詩は「四言」つまり、一句が四文字でしたが、漢の時代には「五言」が一般化して、より内容が複雑で豊かになります。
当時の漢詩は、自然現象、恋愛、戦争、色々な種類がありますが、不思議な事に、誰が詠んだものかはまるで分りません。それもその筈で、当時は庶民から王侯まで、様々な人が漢詩を詠んだのですが、作者の名を記録するという習慣が無かったのです。
そういう性質から、当時の漢詩は優れたモノから素朴なモノまで雑多であり、面白く自由ではあるのですが、芸術として体系づけられたものではありませんでした。勢い、それは芸術という括りではなく、メロディーありきの民謡でした。
曹操一派は、漢詩を変革した・・
曹操はこれを受けて、まだ芸術品とは呼べない漢詩を拾いあげて改革しました。まず、曹操が第一に行ったのは、それまで詠み人知らずだった漢詩に必ず詠んだ人間が署名するように義務づけた事です。
これにより、漢詩を比較する事が容易になり競争がしやすくなりました。これが建安七子と呼ばれた、孔融(こうゆう)、陳琳(ちんりん)、王粲(おうさん)のような、芸術家達、曹魏の芸術サロンをより活発にする為の計らいである事は言うまでもないでしょう。
また、詠んだ人間を特定した事で、漢詩に詠み人の考え方や人生観が、より強く反映されるようになります。「五言」で表現力が豊かになった事も相まって、そこに個々人の思考の深みが産まれ漢詩の芸術性がより高まる事になったのです。
メロディーを排して漢詩を独立させた曹操
もう一つ、曹操が行った重大な改革は漢詩からメロディーを取り去った事です。それまでの漢詩は即興であり、メロディーが産まれてから漢詩をつけました。曹操はそれを逆転させて、漢詩だけで芸術が成立するようにしたのです。もちろん詠みあげる事もありますが、リズムは一定になり多様なメロディーは無くなる事になります。
メロディーと分離された事により、漢詩は静謐な環境で一人でも、産み出す事が可能になりました。こうして漢詩は民間を離れ、知識人階層が静かに表現力を競うという知的な文化に変化していく事になります。民謡は民謡で存在しますが、元々は不可分だった漢詩はそこから分離し知識人層が愛好する芸術活動になったのです。
三国志ライターkawausoの独り言
こうして、漢詩は知識人階層が嗜む芸術へと進化していきました。それにより民間から切り離されて猥雑な味を失う事にもなりましたが、表現は研ぎ澄まされて沢山の優れた漢詩が産み出されたのも事実です。
そのような意味では、曹操は漢詩を芸術まで高めたパイオニアでありよく中国史に登場する戦に強い英雄や謀略の達人というようなカテゴリを越えて、中国芸術界の巨人という、深みを自身に加えているのです。
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