ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志と日本のつながり」のコーナーです。
三国志の時代、日本がどうなっていたのかよくわかってはいません。
この時代に「倭」と呼ばれていたのが日本のことのようです。どうなっていたのか気になりますね。
女王・卑弥呼ってどんな方だったのでしょうか。
今回は三国志と倭のつながりについて触れていきましょう。
西暦57年
後漢の光武帝の時代に倭から朝貢に訪れたのが「倭の奴国」です。
奴国は今の日本だと福岡県の春日市にあったそうです。
後漢書の東夷伝には、「倭の奴国、貢を奉じて朝賀す」と記されています。
このときの使者は「漢委奴国王」の金印をゲットしています。
どんな人が訪れたのかという記載はありません(大夫と称していたとか)。
光武帝のときには朝鮮半島も鎮静化し、高句麗や馬韓、弁韓、辰韓、烏丸、
鮮卑などがこぞって朝貢に訪れていたようです。
全体的に平和な印象の時代ですね。
西暦107年
それから50年後、後漢の安帝の時代にも朝貢の使者が訪れています。
記録では「倭国王帥升等、生口百六十人を献じて謁見を願う」とあります。
奴隷160人はかなりの数ですね。
おそらく日本国内で戦乱があり、敗れた国の民なのではないでしょうか。
日本がある程度統一されてきている感じはしますね。
ここでは後漢の返礼品がどのようなものだったのかという記載はありません。
ちなみに曹操は西暦155年生まれですので、このときはまだこの世に誕生していませんね。
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倭は戦乱の時代に突入
次の朝貢は以前ご紹介した西暦238年になります。
およそ130年間、外交交流は途切れていたことになるのです。なぜでしょうか。
一つは後漢の支配力が大きく衰えるからです。ちょうど三国志の時代です。
そうすると朝鮮半島では高句麗や韓などが勢いを盛り返し、楽浪郡などは力を失います。
ちなみにこの楽浪郡を建てなおしたのが遼東の公孫氏です。
公孫康は西暦210年に帯方郡を新設し、朝鮮半島に睨みをきかせました。
この帯方郡が完成するまでは倭からの使者は朝鮮半島を通れなかったのでしょう。
もう一つの理由が倭の国内で戦乱が相次いだことです。
大乱が起こったので、朝貢どころではなかったというわけです。
よく話には聞きますが、倭の国王が男のときには戦乱が絶えなかったそうです。
そこで女性が王となったのです。それが女王「卑弥呼」です。
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女王即位の年は?
卑弥呼の即位の年は、当然のように記録には残っていません。推測になります。
西暦173年には新羅(辰韓)に外交の使者を送っているという
記録が残っていますから、それ以前だと思われます。
仮に西暦167年に女王に即位したとして、西暦248年頃に亡くなっていますので、
80年間も女王を務めていた計算になります。
女王に即位したときには高齢だったとの記述もみられるので、
40歳ごろに即位して80年間女王をしていたら亡くなったときには120歳になります。
え!?120歳・・・・・・。
卑弥呼は鬼道の使い手ですからこのくらいは問題ないのかもしれません。
そもそも女王になってからは姿を現さなかったというぐらいです。
老いた姿をさらしたくはなかったのか、
武田信玄の死のときのように亡くなったことをずっと伏せられたままだったのか。
ここはかなりのミステリーですね。
私としては卑弥呼は曹操よりも年上だったと思います。28歳くらい年上かな。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
曹操や劉備、孫堅や孫権が生きている時代に卑弥呼も活躍していたのです。
それってけっこう不思議ですよね。
人材コレクターの曹操からしたら、鬼道の使い手である卑弥呼は欲しい人材だったかもしれませんね。
会えてたらの話ですが。
三国志のシュミレーションゲーム、ぜひ卑弥呼からプレイしたい!
皆さんはどうお考えですか。
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