孫臏(そんぴん)は後世「孫臏兵法(そんひんひょうほう)」という書物によって、その名を大いに知られることになります。彼は斉の国の田忌(でんき)という将軍の元で客として養われておりました。田忌は最初彼の実力を疑っておりましたが、古代中国の馳逐(ちちく=現在の競馬のようなギャンブル)が行われた時に彼のアドバイス通りに行ったことで、大金を手にします。このことがきっかけで田忌は孫臏の才能を認めることになり、威王(いおう)からも才能を認められることになります。そして威王は孫臏と田忌のコンビにある作戦を任せることになるのですが、この時の斉兵は超絶に弱兵でした。
敵である趙から助けを求められる
威王が斉王として君臨していた時代は戦国時代が幕を開けてから数十年しか経っておりません。この時代は魏と楚の勢力が他の諸侯の勢力よりも強い時代でした。威王が斉王としていた頃、魏の君主は恵王で斉とは仲良く国交を交えておりました。そんな魏の恵王は趙へ攻撃を仕掛けるべく大軍を率いて、趙の首都・邯鄲(かんたん)を包囲。趙はこのままでは滅亡することになると考え、以前から敵同士であった斉へ援軍を要請します。威王の元へ趙の使者がやってきて救援要請を行った後、重臣達を集めて会議を開きます。
この会議では趙を救うのか。それとも見殺しにするのかを議論。ナルシスト宰相である鄒忌(すうき)は「敵である趙を救う必要はないでしょう。」と述べます。
しかし他の重臣から「魏が趙の領土を得た場合、斉は魏からの圧迫を凌げるのでしょうか。ここは趙の救援に対して応えたほうがいいのではないのでしょうか。」と進言。
威王は鄒忌の意見を却下して、趙を救援することに決定します。
孫臏に断られる
威王は趙救援軍を誰に任せればいいのか判断に迷いますが、孫臏を将軍に仕立てて趙救援に赴かせればいいのではないのかと考え、孫臏に「君を将軍にして趙を救援してきてもらいたい。」とお願いしますが、孫臏は「私は受刑者ですから無理です。」とあっさり断られてしまいます。そのため威王は田忌を救援軍の将軍に任命して、趙の救援へ向かわせることにします。
斉軍は超弱い兵だった
戦国時代初期の中でトップレベルの兵は南方の超大国である楚(そ)の兵士と魏の兵士がトップレベルでした。楚は鉄を加工する技術に優れており、国内からも豊富な鉄を獲得する事ができたからです。また魏はよく訓練された兵で、呉起(ごき)のおかげで兵士の質は非常に良かったそうです。それに比べて斉の軍は体力は楚と魏の兵士に劣っており、武器の質もあまり良くありませんでした。そのため他国から「斉兵は弱いから戦いが楽だ」と侮られておりました。
孫臏の改革
孫臏と田忌はこのような弱兵を率いて天下最強の兵である魏軍と戦わなければならなかったのですが、真正面から戦えば勝つことはほとんど不可能でした。そのため孫臏は弩(ど)を斉兵に充実することにします。弩は三国志の時代にも使用されている武器で引き金を引くだけで飛んでいく弓で、訓練されていない兵でも簡単に扱うことができる武器でした。この武器を充実することで天下最強の兵である魏軍に勝利を飾ろうと考えます。
桂陵の戦いで大勝利
軍を改革させた孫臏は魏軍を趙の首都から退かせるために魏の首都である大梁(たいりょう)へ攻撃を仕掛けます。魏軍は斉軍が自国の首都へ攻撃していると知り急いで帰国。趙の首都はこうして魏軍の包囲から脱することになります。魏軍は首都防衛の為に急いで帰還することになるのですが、桂陵で斉軍の伏兵にあってしまいます。だが魏軍は自らの軍勢が超弱兵の集まりである斉兵に負けるわけがないと思っていることから攻撃を仕掛け撃退しようとします。孫臏は魏軍がやってくると充実させた弩で敵兵に攻撃を仕掛け、魏軍を混乱させたところに歩兵の突撃を行わせたことで天下最強の魏軍を打ち破ることに成功します。孫臏の軍改革が成功した結果がこの大勝利に現れることになり、彼の名前は天下に轟くことになります。
戦国史ライター黒田レンの独り言
孫臏の魔術の一つである超弱兵が天下最強の軍に勝つことのできたのは弩のおかげです。この為、戦国時代の斉軍=弩のイメージが付くことになり、魏は桂陵の戦いの後孫臏のライバルである龐涓(ほうけん)と戦うことになるのですが、この時も弩部隊が活躍することになります。
参考文献 中公新書 孟嘗君と戦国時代 宮城谷昌光著など
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