今回のマイナー武将列伝に登場する人物は魏の邴原(へいげん)という人物です。
彼は学者としてその名を天下に轟かせていた人物ですが、
知っている人はほとんどいないと思います。
この人物を知っている人はガチの三国志マニアと言えるでしょう。
寺子屋の主人に拾われる
邴原の家は超貧乏な家で日々の生活に苦しむような家でした。
そんな邴原の家の稼ぎ頭である父が幼い頃に亡くなってしまい母も居なかったため、
孤児になってしまいます。
彼は途方に暮れてしまい寺子屋の前で泣いておりました。
この寺子屋の主人は邴原を見て「どうして泣いているのだ」と声をかけます。
すると彼は「ここで学んでいる子供達には父・母がいて、
勉学ができて羨ましいと思って泣いているんです。」と述べます。
すると寺子屋の主人は「勉学したいなら教えてやるからいつでもこい」と優しい言葉をかけます。
そして邴原は寺子屋の主人の言葉に甘えて通う事にします。
彼は一所懸命勉学に励み、この寺子屋の子供達の中で、
一番の成績を収めるほどの成長を遂げることになります。
好きな物を絶って勉学に励む
邴原はその後一人で各地で名を挙げている学者・名士の元を訪れて勉学に励んでいきます。
頴川(えいせん)では陳羣の祖父である陳寔(ちんしょく)の元で勉学に励み、
涿では劉備も師事したことのある廬植(ろしゅく)の下で勉学に励みます。
彼は他にも色々なところを回って勉学に励んでいきます。
彼は酒が超好きだったのですが各地で勉学を学ぶ際に酒を絶って、
しっかりと学問に励んでいくことになります。
こうして各地の名士・学者の下で勉学を学んで歩いた彼は、
故郷である北海に帰ると孔融(こうゆう)の元で財務担当の役人として仕えることになります。
戦乱を避けて遼東へ
邴原は孔融に仕えておりましたが、
黄巾の乱が勃発すると孔融の元を去って戦乱を避けるために
遼東へ渡りこの地で生活することにします。
この地で彼は数十年過ごすことになり彼が住んでいた場所には多くの民衆が集まります。
彼が遼東を去る時には邴原の近くに住んでいた数百軒の人々が、彼との別れを惜しんだそうです。
門下生数百人が集まる
邴原は北海に帰ってくると学問所を開いて子供達へ学問を教えていきます。
彼が学問所を開いたことを聞きつけて多くの子供達が彼の学問所に入ってくることになります。
なんとその数は数百人に登り超有名な学問所として知られることに・・・・。
曹操は袁術らを撃ち破り三公の位である司空に任命されると邴原を召し出して、
彼に官職を与えて仕えさせます。
荀彧がベタ褒め
曹操は烏桓討伐を終えて鄴に駐屯します。
邴原は曹操が鄴へ到着したことを知ると一番最初に挨拶しに行きます。
曹操は彼に「君が一番最初に挨拶にしに来るとは思わなかった。
むしろ私は君がこないと思っていたが、私の期待を裏切って私の希望を叶えてくれるとは。
非常に嬉しいことだ」と手を取って彼を宴会に誘います。
邴原は曹操との会見が終わり自室で休憩していると烏桓討伐戦に参加していた諸将から挨拶を受け、
その数はなんと数百人にも登ったそうです。
曹操はどうして邴原へ挨拶に来る人々があんなに大勢いるのであろうか不思議であったため、
荀彧に相談します。
すると荀彧は「彼は現在の天下において非常に優れている人物でしょう。
殿は彼をしっかりと優遇していれば何の問題もありません。」と進言。
曹操は「安心しろ荀彧。わしはそのつもりである」と
荀彧の進言を受け入れ彼をその後も厚遇していくことにします。
三国志ライター黒田レンの独り言
邴原は曹操から厚遇され続け彼は軍事に関連する役職を転々とするのですが、
病にかかってあまり赴任できませんでした。
しかし曹操は彼が赴任できなくてもクビにすることはありませんでした。
また曹操は邴原に曹丕の教育係を任命しており、
曹丕が意地の悪い質問を彼にしたことがありました。
だが邴原は曹丕の意地の悪い質問にも堂々とした態度で返答を行ったことで、
曹丕も彼の前ではいうことを聞いていたそうです。
曹操・荀彧から褒められたマイナー武将列伝の邴原をご紹介しました。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書2 今鷹真・井波律子著など
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