日本史上、最大の国難、元寇を正面から扱った痛快、チャンバラ合戦絵巻、アンゴルモア元寇合戦記、この漫画の主人公は鎌倉で政争に敗れ、対馬に流された流人、朽井迅三郎光影(くちい・じんざぶろう・みつかげ)です。
迅三郎は、まだ若い武士ですが、義経(ぎけい)流剣法という独特の剣術を使い、戦術眼も鋭く、少数の対馬武士団を率いて、100倍のモンゴル軍に挑み、小さいながら着々と戦勝を積み重ねていきます。では、この朽井迅三郎は、実在した人物なのでしょうか?
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この記事の目次
朽井迅三郎は架空の人物
漫画の主人公の朽井迅三郎は、架空の人物ですが、モデルになった人物はいます。
原作のたかぎ七彦が単行本一巻のあとがきに書いた内容によると同時代の史料「八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)」に記されている蒙古襲来で戦った対馬の流人「口井兄弟」がモデルであるようです。口井が朽井になって、兄弟が一人になったという事ですね。
名前を少し拝借した以外は、朽井のキャラクターは全くのオリジナルなので朽井迅三郎は、ほぼ架空の人物と断定していいでしょう。
謎設定を詳しく、どうして朽井迅三郎は対馬に流されたのか?
アンゴルモア元寇合戦記では、冒頭でいきなり、朽井迅三郎等、数十名の流人が対馬に流される所から始まります。でも、どうして朽井は対馬に流されてしまったのでしょうか?
こちらには歴史的な伏線が配置されていて、1272年に鎌倉で起きた二月騒動という事件が関係しています。当時の鎌倉幕府の執権(しっけん:総理大臣)は北条時宗(ほうじょう・ときむね)という人物でした。
アンゴルモア元寇合戦記では、見た目は柔弱に見えて、実は腹黒く強かな人物としてすでに登場しています。彼は得宗(とくそう)家と呼ばれ代々執権を出す北条一門でも名門の出身でしたが、ライバルも多く、同じ北条氏の名越流(なごしりゅう)と対立していました。
この名越流は、それ以前から、得宗家から執権職を奪い取ろうと画策して失敗していましたが、1272年にも、名越流、北条時教(ほうじょう・ときのり)が時宗に対して二月騒動と呼ばれる謀反を起こし鎮圧され、時教は息子共々斬首されました。
穏健派の北条時章と朽井迅三郎は親しかった
この名越流には、北条時章(ときあき)という人がいて彼は弟の時教と違い穏健派でした。二月騒動には加担していないのですが、執権、時宗は容赦せずに時章の館にも討伐軍を派遣し時章は無実でありながら殺されてしまう結果になります。
アンゴルモア元寇合戦記の主人公の朽井迅三郎は、この北条時章と親しいという設定なので、朽井も攻め込まれた時章に勝手に加勢してしまい謀反人として捕えられるというストーリーになっています。
北条時宗は無実と知りながら時章を殺した
しかし、どうやら、北条時章は誤殺ではなく、最初から無実と知りながら、執権、北条時宗主導で殺されてしまったようです。その理由は、時章が九州の筑後(ちくご)、大隅(おおすみ)、肥後(ひご)の守護だった事にあります。
これらの領地は、時章の死後、安達泰盛(あだち・やすもり)や大友頼泰(おおとも・よりやす)に与えられますが、彼等は執権、北条時宗を支える寄合衆に属していたのです。
これは、回避できないモンゴル軍の襲来に備えて、名越流が九州でモンゴル討伐で手柄を立て、鎌倉で発言権を増す事がないようにあらかじめ、時章を殺して領地を味方に分配しておいて得宗家の主導権を強めるという思惑があったのです。
アンゴルモア元寇合戦記 kawausoの一言
その後、北条時章は無実が判明したとして、名誉を回復され逆に時章を討った御内人(みうちびと:時宗の直接の家来)5名が処刑されました。ですが、これも出来レースであり、無実の時章を殺した反感が予想以上に強かったので、慌てて執権時宗が尻尾を切り落としたと考えられます。
そういう事になると、主人公の朽井迅三郎にとっては、執権時宗は、友を無実の罪で殺し、朽井の家、財産を奪い対馬に流した憎っくき敵です。ではありますが、史実の時宗は優秀な指揮官であり、元寇を阻止しようという思惑では朽井迅三郎と一致しているわけです。これが、その後どうなるかというのも、アンゴルモア元寇合戦記の見所ですね。
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