羽柴秀吉(はしばひでよし)。
播磨(はりま)攻略戦を織田信長から任されると意気揚々と幕僚達を連れて、
播磨の豪族内でいちはやく織田家に味方した
黒田官兵衛(くろだかんべえ)の本拠・姫路城(ひめじじょう)へ逗留します。
彼はこの地で播磨各地の豪族へ調略活動を行い次々と播磨の国人衆を味方につけることに成功。
しかし一度味方になったはずの別所長治(べっしょながはる)が毛利家に味方して、
反旗を翻すと播磨の豪族や国人衆が次々と別所氏へ味方。
こうして播磨の国は再び織田家の手から離れてしまうのです。
秀吉は織田信長の救援軍に助けられ、3年もの月日を費やした結果、
播磨の国を平定することに成功することになります。
こうして播磨の国を平定することに成功した秀吉は
次なる目標として因幡(いなば)の鳥取城に狙いを定めて行動を開始します。
秀吉が鳥取城に対して行った攻城戦を後世「鳥取城の飢え殺し(とっとりじょうのかつえごろし)」と
言う包囲戦を展開するのですが、この戦いはどのような戦い方なのでしょうか。
今回は秀吉が行った従来とは違う攻城戦についてご紹介したいと思います。
秀長の活躍
秀吉は播磨を攻略が完了する以前に、
弟の秀長(ひでなが)へ命じて但馬(たじま)方面の攻略を任せておりました。
秀長は但馬の竹田城(たけだじょう)を根拠地にして、但馬方面の攻略を行います。
当時但馬は山名氏(やまな)氏が守護でしたがほとんど力がなく武将達に追われてしまします。
守護であった山名氏がいなくなると垣屋(かきや)氏、太田垣(おおたがき)氏、
八木氏(やぎ)、田結庄氏(たゆいしょう)の四名が但馬の国で争っている状態でした。
秀長はこうして分裂している但馬の国人衆をうまく利用して、
但馬の中心地で山名氏の本拠であった出石城を陥落することに成功。
その後山名氏の元家臣達は毛利家のもとへ逃亡したり、
秀長に打ち取られたことで但馬平定が完了することになります。
鳥取城攻略に狙いを定める
秀吉は一度背いて織田に敵対した別所氏の討伐を完了すると
次なる攻略目標を決めます。
彼が次なる攻略目標として定めたのは因幡の鳥取城です。
秀吉は一度鳥取城へ攻撃を仕掛けるのですが、
要害堅固であったため攻略することができずに撤退。
そして彼はリベンジを果たすべく姫路城から二万の軍勢を出陣させる準備を行います。
毛利家は秀吉が鳥取城へ向けて出陣する可能性があることを知ると
名将を送って羽柴軍に対抗することにします。
毛利家が派遣した名将は吉川一門で、
優れた功績を持っている吉川経家(きっかわつねいえ)です。
彼は鳥取城へ赴くときに自ら棺桶を引いて向かったそうです。
三国志の龐徳(ほうとく)も関羽を討伐するために、
柩を率いて樊城(はんじょう)へ赴いておりますが、
吉川経家もかなり悲壮な決意と覚悟を持って鳥取城へ入城したのではないかと考えられます。
秀吉の下準備
秀吉は鳥取城を攻撃する前に下準備を行います。
彼は鳥取城を包囲しても海から毛利水軍が援護を行い、
鳥取城へ兵糧を入れてしまえば、包囲戦をつづける意味がないと考えます。
そこで彼は三つの下準備を行います。
まず一つ目に因幡中のコメを通常の倍の値段で買い占めることでした。
通常の倍で因幡中のコメを買い占めることによって、
鳥取城の吉川経家が兵糧を買うことのできない状態を作り出します。
二つ目は鳥取城近くの農村の住民へひどい仕打ちをすることです。
鳥取城近辺の農村にひどい仕打ちをすることによって、
農村にするんでいる村人が鳥取城へ逃げるように仕向けることによって、
少しでも鳥取城の兵糧を減らしていこうとの考えです。
そして最後の一つは秀吉に味方した伯耆(ほうき)の南条元続(なんじょうもとつぐ)の
居城である羽衣石城(うえしじょう)で頑張ってもらうことです。
南条元続の居城・羽衣石城は毛利家の山陰方面司令官である
吉川元春(きっかわもとはる)と境を接しており、
鳥取城が包囲された場合彼が大軍を率いて援軍に駆けつけてくる可能性がありました。
もし吉川元春が大軍を率いて出陣してきた場合、
羽衣石城の南條家に盾になってもらうことで、
吉川元春の大軍の足止めをしてもらおうと考えておりました。
秀吉は南條へお願いすると南條家も秀吉のお願いを快諾。
こうして鳥取城包囲戦の下準備が完了すると鳥取城へ向けて、
軍勢を進発させることにします。
重包囲完了
秀吉は大軍を率いて鳥取城へ到着するとすぐに砦を築いて、
鳥取城からアリ一匹逃れることのできない重包囲を完了させます。
彼は鳥取城包囲が完了すると鳥取城へ攻撃を仕掛けることをしないで、
兵糧がなくなるのを気長に待つことにします。
毛利の援軍がやってくるも・・・・
吉川元春は秀吉が鳥取城を包囲したことを知るとすぐに水軍を出陣させて、
鳥取城へ兵糧を入れようとします。
しかし秀吉の軍勢が鳥取城の港近辺もしっかりと防御を行っていたため、
迂闊に上陸することができませんでした。
さらに鳥取城近辺に織田水軍がやってきていたこともあり、
毛利水軍は為すすべもなく撤退することになります。
吉川元春の嫡男である元長(もとなが)は鳥取城を直接救援しようと考え、
大軍を率いて出陣します。
しかし南条元続が元長の救援軍を羽衣石城で迎え撃ったため、
元長の大軍も羽衣石城で足止めされてしまい、鳥取城へ向かうことができませんでした。
骨と皮だけになった鳥取城内
鳥取城に篭城していた毛利軍の兵士や旧山名氏の兵士達は、
二ヶ月の間外に出ることもできずに篭城しているだけでした。
その為鳥取城内にあった兵糧は直ぐに底をついてしまいます。
その後鳥取城内の兵士たちは草を食べたり、
馬を食べたりしながら毛利家の援軍到来を待ちわびておりましたが、
毛利家の援軍は鳥取城へやってくることはありませんでした。
吉川経家も抵抗を諦めて降伏
鳥取城の守将であった吉川経家はこのまま籠城を続けていては、
城内の兵士や住民たちが全て飢えで死んでしまうと考えて、
羽柴秀吉へ降伏する旨を伝えます。
秀吉はこの降伏の使者から降伏の条件について話し合いが行われます。
秀吉は経家を幕僚に加えたいと考えていたため、
旧山名氏の家臣達が切腹することを鳥取城の降伏する条件として提示。
しかし経家は秀吉の提案を拒否して、自らが腹を斬って自害することを条件に提示します。
その後ふたりの間で幾度化のやり取りがありましたが、結局秀吉側が折れることになり、
吉川経家・旧山名氏の家臣達は自害し、鳥取城は降伏することになります。
この戦いを後に鳥取城の飢え殺しといわれることになります。
戦国史ライター黒田レンの独り言
さて何が新しい攻城戦なのでしょうか。
従来の攻城戦では兵糧攻めを行うこともありましたが、
最終的には敵が降伏してこなければ、力攻めにして陥落させる攻城戦が主流でした。
しかし秀吉は金銭をふんだんに使うことで兵士の死傷を最小限に抑える戦いを展開。
この戦いでの秀吉軍の死傷者は不明ですが、ほとんどいなかったと思われます。
なぜならば攻城戦と言われる戦いはほとんど行われていない為です。
この秀吉が考えた新しい攻城戦は彼の主流戦法として確立されることになり、
後の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)攻城戦や
小田原城(おだわらじょうこうじょうせん)攻城戦などで使用されることになるのです。
参考文献 中公新書 信長軍の司令官 谷口克広著など
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