織田信長は将軍・足利義昭(あしかがよしあき)を擁して、
京都や近畿周辺の諸大名を味方につけることに成功し、
京都へ勢力を伸ばすことに成功します。
信長と義昭は京都に到着した当初はかなり仲のいい協力者として
互いに尊重しておりました。
義昭は信長の勢力を後ろ盾にすることで将軍の権威の回復し、
諸大名(畿内を中心とした諸大名)や幕府直轄領からの税収など、
経済的基盤を確立。
さらに直轄軍の再編成など積極的に行動を起こしていきますが、
信長は別に怒ったりしてないで彼の行動を見守っておりました。
このように協力的な二人の間がとあることがきっかけで、
仲が悪くなってしまいます。
その原因は一体何なのでしょうか。
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信長ブチキレて帰る
信長は伊勢の北畠(きたばたけ)氏を攻略すると京都へ向かい、
将軍・義昭に戦勝報告を行います。
その後朝廷にあいさつ回りを行います。
こうして京都でやるべきことを行った信長でしたが、
突然岐阜(ぎふ)城へ帰還してしまいます。
朝廷の公家や部下達は信長の後を追って彼を京都へ呼び戻そうとします。
信長は岐阜に帰る途中で朝廷の公家達に引き留められますが、
一言「いや。もう帰るし。あいつうざいし」と愚痴をこぼして、
岐阜へ帰っていきます。
さて信長が言った「あいつ」とはいったいだれを指しているのでしょうか。
信長がうざいといったあいつとは
信長が公家達へ言った「あいつ」とはいったい誰なのでしょうか。
あいつとは足利義昭です。
信長は義昭と仲が悪くなかったのに、
どうして彼の悪口を言うようになったのでしょうか。
その原因は北畠氏攻略戦が原因でした。
大軍を率いて北畠氏攻略戦へ赴くも…
信長は京都や近畿周辺の諸大名を平定した後、
北畠氏の重臣である木造(こづくり)氏から
「内応するから北畠家を攻撃してくれないか」と連絡がやってきます。
信長は京都を去って岐阜へ帰還するとすぐに大軍を率いて、
伊勢の北畠氏攻略へ向けて出陣。
信長が率いていた人数はさだかではありませんが、
5万とか10万といわれるほどの大軍を率いて攻略戦に向かったそうです。
しかし信長率いる織田軍は北畠氏攻略にてこずることになり、
局地戦で北畠氏率いる軍勢に幾度も敗北してしまいます。
そのため信長は北畠氏の本拠地である大河内城を包囲する作戦に出ますが、
1か月包囲しても大河内城は根を上げることなく、
織田軍に激しい抵抗を行ってきます。
信長はこのままではまずいと考えて将軍・義昭にお願いして北畠氏と講和の
仲介に立ってもらうようにお願いします。
信長に有利な条件で講和成立
義昭は信長から北畠氏との講和を要請されると早速行動を開始。
彼は信長が提示した有利な条件を北畠家氏へ提示します。
北畠氏は最初信長との講和に難色を示しますが、
義昭は将軍の権威を見せつけて強引に講和へ応じるように命令。
その結果、信長に有利な条件で北畠氏は織田家と講和することになります。
こうして信長は北畠氏攻略戦を完了することになるのですが、
義昭に借りを作ってしまうことになります。
また義昭は信長に借りを作ることで将軍の権威の回復がなされたと勘違いし、
調子に乗ってしまったことが原因で信長との間に微妙な溝ができてしまいます。
そして信長が京都へ戦勝報告をしたとき、
義昭は信長に調子づいた発言をしたことがきっかけで、
信長は機嫌を悪くして岐阜へ帰還してしまうことになるのです。
戦国史ライター黒田レンの独り事
義昭は将軍の権威が回復したと思い込んで、
信長に調子づいてしまったことが原因で、
二人の仲は少し悪くなってしまいます。
この事件をきっかけとして二人の仲が少しずつ悪くなっていき、
最終的には敵対関係になってしまうのです。
そして信長にとって尾張統一戦と同じくらいもしくはそれ以上につらい時期が、
再びやってくることになります。
参考文献 中公新書 織田信長 脇田修著など
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