董卓(とうたく)は洛陽に入城した後暴虐の限りを尽くします。
彼が行った暴虐の一例として、祭りを行っている農民達をすべて殺害したり、
恨みを持っている人には残虐な刑罰を与えて報復したりしております。
こんな董卓のやり方に不満を持った王允(おういん)は
呂布(りょふ)を誘って董卓を暗殺してしまうのですが、
王允の董卓暗殺が行われる前に董卓をたった一人で暗殺しようと試みた勇士がいた事を
皆さんは知っていますか。
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節操ある人物・伍孚(ごふ)
伍孚(ごふ)は若い頃から自らが信じる主義や意見をしっかりと持っている人物で周りからは、
節操のある人物であるとの評価をもらっておりました。
そんな彼ですが彼の出身地である村の村長が罪を犯してしまいます。
この事を知った太守は部下である督郵(とくゆう)に村長を捕まえさせようと考えます。
そして太守は伍孚を呼んで「君の村の村長が罪を犯したそうだ。
ここに村長逮捕を命じる命令書を作ったからこれを部下の督郵に渡してきてもらいたい」と
お願いします。
伍孚は命令書を受けてしまえば自分が信じていた主義に反してしまうため、
命令書を受け取ることをしませんでした。
命令書受け取りを断った時の言葉がすごい!!
伍孚は太守から命令書を受け取ることをしないできっぱりと断ります。
彼は太守へ「主君が主君足りえない人物であるとしても、臣下は臣下でなければなりません。
私は村の村長の部下だったこともあるのでこの命令書を受け取るわけにはいきません。」と
明言します。
この言葉聞いた太守は「お前の言うとおりである。この役目は違う者にやらせよう」と
彼の言葉を聞き入れることにします。
それにしても上下関係が今よりもずっと厳しい時代にこれだけの事をしっかりと言える人物は、
中々いないのではないのでしょうか。
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董卓の横暴に激怒そして・・・・
伍孚はその後中央政府に召されて色々な職を歴任することになりますが、
董卓が宦官一層作戦終了後で混乱している洛陽(らくよう)へ入城してきて、
権力をその手に収めると横暴を極めていきます。
この董卓にビビって何も言えなくなってしまった文武百官のだらし無さと董卓の横暴に激怒した
伍孚は董卓を暗殺するために動き出します。
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董卓と会見終了後に・・・・
伍孚は董卓から呼ばれると服の中に刀を隠して董卓と会見します。
色々な政策についての相談を受け的確に応答していきます。
こうして会見が終わって董卓に門まで見送られたその時、
彼は服の中から刀を取り出して董卓へ思いっきり突き刺します。
しかし董卓は若い頃から武術で鍛えていたので、
伍孚の刀は董卓に致命傷を与えるまでには行きませんでした。
怒りをぶつける伍孚
董卓は伍孚が刺してきた事に激怒し「貴様謀反をするつもりか」と激怒。
しかし伍孚は「俺は貴様の家臣となった覚えはない。
だから謀反することにはならん。
乱暴なことばかりをしている貴様を殺して市場に晒す事が目的であったが失敗してしまった。
天下の民衆達に申し訳ないことをした。」と董卓に怒りをぶちまけます。
董卓は伍孚の言葉を聞いてさらに激怒し彼を殺害してしまうのです。
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三国志ライター黒田レンの独り言
袁紹や各地の名士達が反董卓連合軍を結成したのは、
一人では董卓を殺害できないことを知っていたからです。
各地の名士達と協力して董卓討伐を行おうと考えておりましたが、
大した成果を上げることができませんでした。
また王允も一人では董卓を殺せないことを知っていたので、
呂布を使って董卓を殺害を目論みます。
しかしたった一人で董卓を暗殺を行った(失敗してしまいましたが)伍孚は、
勇気と度胸を兼ね備えた人物と言えるのではないのでしょうか。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書1 今鷹真・井波律子著など
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—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—