1万7000人、秀吉軍のフルマラソン(中国大返し)街道でお茶とおにぎり食い放題、5日間で70キロ走破

2017年6月12日


 

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織田信長が本能寺(ほんのうじ)で明智光秀に打ち取られてしまった時、

羽柴秀吉は毛利家と和睦することが決定されることになります。

毛利家との和睦の条件は毛利家の所領として有している備中(びっちゅう)、

美作(みまさか)、伯耆(ほうき)の三カ国と高松城の城主である

清水宗治(しみずむねはる)の自害で決着がつきます。

毛利家との和睦交渉が終わってから数日後とんでもない知らせが彼の元へ届きます。

それは織田信長に明智光秀が反旗を翻したという内容でした。

この内容を知った秀吉は突然のできごとであったこともあり、

すっかり腑抜けになってしまうのでした。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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秀吉を励ます

 

秀吉は信長が亡くなったことを知ると腑抜けになってしまいます。

彼の弟である羽柴秀長(はしばひでなが)や軍師・黒田官兵衛(くろだかんべえ)

秀吉の初期の頃から付き従っている蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)の三人から

励まされることになります。

彼らは秀吉へ「今ここで、呆然としている時間はないはずです。

秀吉様。今から軍勢を引っ返して大殿の仇を討ちに行きましょうぞ」と激励。

秀吉はこの言葉を聞いて次第に気持ちを立て直していくことになります。

彼は光秀を討伐する前に毛利家との和睦を正式に

成立させなくてはならないとつぶやきます。

ここから秀吉の片腕兼軍師である黒田官兵衛が大活躍することになります。

 



官兵衛の活躍その1:毛利との和睦を成立させる

 

官兵衛・秀長・正勝の三人はとりあえず、

毛利へ本能寺で信長が亡くなったことをバレないようにするため、

箝口令を敷くと共に陸上・海上から光秀の密使が毛利方へ向かわないように封鎖します。

こうして情報がもれないようにした後、

官兵衛は毛利の外交官である安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を呼び出し、

「早急に和睦をしなければ行けなくなった。

信長様がすでに軍勢を揃えてこちらに向かっているとの情報が入っている」と述べます。

恵瓊は驚かずに官兵衛の話を聞いた後「承知しました。」と言って和睦を早々に結ぶため、

高松城の城主・清水宗治を切腹させてしまいます。

こうして高松城を秀吉の武将である杉原家次(すぎはらいえつぐ)に引き渡し、

毛利家との和睦が成立することになります。

早々に毛利家との和睦が成立することができたのは、

官兵衛の働きと言っていいのではないのでしょうか。

 

官兵衛の活躍その2:撤退準備を行う

 

官兵衛は清水宗治が切腹する前に秀吉に呼ばれて秀長、正勝などの

重臣達と話し合いを行います。

この会議で話し合ったのはどのようにして、

播磨(はりま)まで撤退していくのかという事でした。

秀吉は官兵衛に命じて撤退の準備を行うように命じます。

官兵衛は高松城から播磨の姫路城まで秀吉軍が、

撤退する進路を割り当てることから始めます。

高松城から宇喜多家の本拠である沼城までは撤退する順番を決めて各軍が進軍。

その後沼城からは二つの道を使って各軍に進路を示すことにします。

さらに彼は姫路まで軍勢が休みながら進軍することができないであろうと考え、

街道の村々に炊き出しを行うように命令を出します。

こうして撤退プランを考えた官兵衛は秀吉の元へ向かって撤退プランを提案します。

秀吉は官兵衛の撤退プランを一読した後官兵衛の案を採用し、

彼の考えた方法で撤退していくことを決めます。

 

毛利の追撃を防ぐための部隊配置

 

秀吉は撤退プランが出来上がると次なる行動を起こします。

それはもし毛利家が信長の死を知って追撃してきた場合を想定し、

どうすれば毛利軍の追撃を止めることができるかを考えます。

秀吉は高松城の堤防を破壊して高松城一帯を沼地にしてしまうことで、

毛利家がすぐに追撃を仕掛けてくることができないようにする作戦を考えておりました。

しかし山陰道から毛利軍が秀吉に奪われた領土を奪還するため、

追撃をかけてきた場合を考え宮部継潤(みやべけいじゅん)に鳥取城(とっとりじょう)を

防御するように命令を出します。

また宇喜多家に毛利軍が追撃を仕掛けて時、

しっかりと防御してくれるようにお願いをします。

こうして山陰(さんいん)・山陽(さんよう)どちらの道からでも毛利軍が、

追撃を仕掛けてもいいように手配を行います。

そして秀吉はこれらの撤退準備が完了すると信長の仇を討つべく進軍を開始します。

 

とんでもないスピードで姫路まで到着する

 

秀吉は高松城付近に建設した堤防を破壊して撤退を開始。

彼らは宇喜多家の居城である沼城に到着するとここで宇喜多家の軍勢を全て駐屯させ、

秀吉率いる本隊1万7000の軍勢は播磨の本拠地である姫路城めがけて、

突っ走っていきます。

そして沼城から姫路城まで70キロある工程をたった1日で走破してしまうのです。

もちろん足軽部隊の姫路到着は遅れたでしょうが、

秀吉の親衛隊は姫路到着しているのです。

とんでもないスピードです。

戦国時代には輸送用のトラックや新幹線なんかは走っていません。

親衛隊は必死に馬に乗って姫路まで突っ走ったのでしょう。

しかし高松城から退却したのが6月4日で秀吉が姫路城に滞留していたのが、

6月9日なのでたった5日で70キロの道のりを足軽も走破してきているのです。

当時の人間がどれだけ根性があり、すごいかを表すエピソードと言えるでしょう。

そしてこの秀吉の撤退劇を後世「中国大返し」と言われることになり、

秀吉の必殺技の一つとして数えられることになります。

しかしひとつここで疑問が起きませんか。

どうして毛利家は秀吉を追撃しなかったのでしょうか。

 

毛利家の動き

 

毛利家は実は高松城で清水宗治が亡くなった後すぐに信長死亡の知らせが、

届いておりました。

ではなぜ毛利家は秀吉を追撃しなかったのでしょうか。

そこにはこのような理由がありました。

毛利家では信長の死を知ると吉川元春(きっかわもとはる)が、

毛利家当主・毛利輝元(もうりてるもと)や小早川隆景(こばやかわたかかげ)がいる所で

「和睦を破棄して今こそ秀吉に追撃をかけるべきである。」と主張。

しかし小早川隆景は「いや。ここは秀吉との和睦を破棄するべきではないと考えます。

いま追撃をかけて秀吉を討ち取ることができればいいですが、

もし討ち取ることができなかった場合、毛利家はどのようにして戦えばいいのでしょうか。」

と秀吉追撃を行うべきではないと輝元へ進言。

輝元はふたりの意見を聞いた後、

重臣達もよんで秀吉追撃を行うべきか否かの意見を聞きます。

その結果秀吉を追撃するべきではないと主張した小早川隆景の意見が、

毛利家の総意となり、毛利全軍は高松城から撤退することになります。

秀吉はこの事を知りませんでしたが、小早川隆景がこの時追撃を主張しなかったからこそ、

彼が天下を握ることができたと言えるのではないのでしょうか。

 

戦国史ライター黒田レンの独り言

 

秀吉は姫路城に到着すると全軍へ

「おれはこれから上様を討った明智光秀を討伐しにいく。

皆も俺の仇討ちについてきて欲しい。

もし俺が光秀に敗北してしまったら皆姫路に帰ってくることができないが、

光秀に勝つことが出来れば、今までの戦でもらっていた褒賞の倍は与える。

とりあえずこの姫路城に残ってる金銀を配るゆえ、皆に奮起してもらいたい」と激励。

この激励を聞いた兵士達は一気に士気が向上することになります。

こうして秀吉の中国大返しは大成功に終わることになります。

しかしまだ信長を殺害した明智光秀を討伐しておらず、

近畿周辺の諸大名も秀吉もしくは光秀どちらに味方するかわからない状態であり、

秀吉にとって有利な状況が出現したわけではありませんでした。

そしてこの中国大返しの必殺技は、秀吉の得意技として登録されることになり、

後年再度この大返しの必殺技を使うことになるのです。

 

参考文献 ソフトバンク新書 秀吉家臣団の内幕 滝沢弘康著など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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