関羽と張遼の「交流」をピックアップ!三国志演義のサイドストーリーに迫る!後篇

2017年6月12日


 

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正史三国志に基づいて作られた創作小説、

三国志演義は大筋のストーリー以外にも

正史の記述に基づいて細かな人物間でのエピソードが記述されています。

そうした、サイドストーリー的な部分を注意して読むとまた違った物語が見えてきます。

関羽(かんう)は魏の五大将軍の一人である張遼(ちょうりょう)と縁があり、

三国志演義の要所要所で二人の接点が記述されます。

 

前回記事:関羽と張遼の「交流」をピックアップ!三国志演義のサイドストーリーに迫る!前篇

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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演義における登場人物の繋がり

 

あくまでも創作小説としての三国志演義に脚色として追加されたシーンではあると思いますが、

そうした脚色も正史から考えられたものであり、

三国志の話を彩る面白いエピソードであると思います。

今回は、三国志演義後半部における

関羽(かんう)と張遼(ちょうりょう)の場面をピックアップしてご紹介します。

 

前半部の関羽と張遼の関係

 

関羽(かんう)と張遼(ちょうりょう)は、

それぞれ劉備(りゅうび)と呂布(りょふ)に仕えていました。

乱世であった故に、主君同士が対立し敵同士になってしまいますが、彼らはお互いの実力、

そして人格を認めていた仲でした。

敵として相対した時にも関羽(かんう)は逆賊となっている張遼(ちょうりょう)を諭し、

また張遼(ちょうりょう)もそれを分かった上で逆賊である自身の立場に苦悩していました。

関羽(かんう)にはその苦悩が分かっていました。

張遼(ちょうりょう)の主、呂布(りょふ)が曹操(そうそう)に敗れ死罪となった時にも、

関羽(かんう)は張遼(ちょうりょう)を庇い、死罪を免れるように曹操(そうそう)に頼みました。

彼らはお互いを認め合っていました。

 

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絶体絶命の関羽

 

その後、曹操(そうそう)と劉備(りゅうび)が対立することとなります。

事の発端は、献帝(けんてい)が曹操(そうそう)の操り人形でしかない現状を嘆き、

劉備(りゅうび)を初め献帝(けんてい)に誓いを立てた者達が反乱を決意します。

しかし、事を成す前に露見し、反乱を企てた者とその家族は死罪、

劉備(りゅうび)も曹操(そうそう)軍からの攻撃を受け、関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)と別れ、

ちりぢりになってしまいました。関羽(かんう)は下邳城で篭城しました。

曹操(そうそう)「何とか関羽(かんう)を我が部下としたい。」

張遼(ちょうりょう)「それがし関羽(かんう)と面識があります。なにとぞ使者の役目を申しつけください。」

そこで、まず関羽(かんう)を城の外へ誘き出し、敗走している不利をして遠方に誘導、

近隣の山に追い詰め、

下邳城にいる劉備(りゅうび)の妻と分断した上で説得するという作戦を決行しました。

 

張遼の恩返し

 

作戦通り関羽(かんう)は山に追い詰められ、下山できなくなりました。

その状況で下邳城に火の手が上がり、関羽(かんう)は気が気ではありません。

そこに曹操(そうそう)軍からの使者として張遼(ちょうりょう)が現れます。

関羽(かんう)「これは文遠(ぶんえん)殿。貴公がわしの相手か。」

張遼(ちょうりょう)「いや、昔の誼みを思い、話でも致そうかと思って参上致した。」

関羽(かんう)「降参を勧めに参ったのだな。」

張遼(ちょうりょう)「それは違う。以前、救って頂いた御恩返しに参ったのだ。」

関羽(かんう)は最後まで死を厭わず戦うつもりでしたが、張遼(ちょうりょう)は、

その関羽(かんう)を説き伏せ、降伏させたのでした。

こうして、張遼(ちょうりょう)は以前助けてもらった恩を返すことができたのでした。

 

曹操の下での関羽

 

自分の元に来た関羽(かんう)を曹操(そうそう)はやたらともてなしました。

関羽(かんう)は降伏の時に

「漢室に降伏したのであって曹操(そうそう)に降ったのではない、

劉備(りゅうび)が生きていて居場所が分かればここを去る。」

と言っていましたが、恩をかけることで自身の家来になると考えたのです。

曹操(そうそう)は張遼(ちょうりょう)に関羽(かんう)の様子を伺わせました。

張遼(ちょうりょう)「雲長(うんちょう)殿、このまま曹操(そうそう)様に使える気は無いか。」

関羽(かんう)「約束では、玄徳(げんとく)が生きていれば、

その時にも去ると言ってあるではないか。」

張遼(ちょうりょう)「玄徳(げんとく)殿が死んでいたらどうするのだ。」

関羽(かんう)「地下まで御供するまでよ。」

張遼(ちょうりょう)は関羽(かんう)の忠義と決意は揺るがすことができないと感じました。

 

VS顔良・文醜

曹操(そうそう)はその頃、袁紹(えんしょう)と戦うことになります。

袁紹(えんしょう)の将である顔良(がんりょう)に曹操(そうそう)の部下が何人も殺されます。

魏の五大将軍の徐晃(じょこう)すらも顔良(がんりょう)に勝てませんでした。

その顔良(がんりょう)を関羽(かんう)はあっさり倒して見せました。

また、張遼(ちょうりょう)と徐晃(じょこう)が苦戦した文醜(ぶんしゅう)をも倒して見せました。

ここだけを見ると、魏の五大将軍の張遼(ちょうりょう)と徐晃(じょこう)は武勇に優れるものの、

関羽(かんう)の方が上手に見えます。

 

関羽の帰参

 

顔良(がんりょう)・文醜(ぶんしゅう)を斬り、曹操(そうそう)への恩返しを終えた関羽(かんう)は、

劉備(りゅうび)の元に帰参するため、曹操(そうそう)の家を訪問しますが、

仮病を使い面会を断っています。

張遼(ちょうりょう)の家にも訪問しましたが、同様の仮病を使われます。

張遼(ちょうりょう)としては、曹操(そうそう)の命でそうしていたかもしれませんが、

内心嘘をついたようで心苦しかったでしょう。

関羽(かんう)は無断で退去し、

五つの関所を突破した関羽(かんう)の行く手を夏侯惇(かこうとん)が阻みますが、

張遼(ちょうりょう)が曹操(そうそう)からの許可状を届け現われ夏侯惇(かこうとん)を止めます。

そして、関羽(かんう)を見送るのでした。

 

赤壁の戦いでの二人

 

やがて、かの有名な赤壁の戦いが起こります。

呉軍との戦いで、連環の計によって曹操(そうそう)軍は大敗、敗走します。

その後、劉備(りゅうび)軍が追撃をかけ、散々に打ちのめされてしまいます。

最後の伏兵として待ち受けていた関羽(かんう)に曹操(そうそう)は昔の恩で命乞いします。

関羽(かんう)は義を重んじる故に、

また曹操(そうそう)の部下達が主君のために涙を浮かべながら命乞いしているのを見て、

許してしまいました。

関羽(かんう)「散れ。」

そう言って曹操(そうそう)とその大将を逃がしたのでした。

ただ、これでは待ち伏せに成功したのに、一戦も交えず退くこととなってしまいます。

関羽(かんう)は振り返り再び残りの曹操(そうそう)軍を見やりました。

彼らの憐れな姿に迷っていると、一騎の馬が飛び出してきました。

姿を見せたのは張遼(ちょうりょう)でした。

関羽(かんう)は故旧の情を感じずにはいられず、

結局張遼(ちょうりょう)をはじめ、残りの兵も逃がしてしまうのでした。

 

その後の二人

 

その後の二人は、恐らく合いまみえることは無かったと思われます。

この後、演義では関羽(かんう)は呉の手に落ちて死に、張遼(ちょうりょう)は曹操(そうそう)の後継ぎ、

曹丕(そうひ)の呉征伐の際、徐盛(じょせい)の計略で返り討ちにあい退却する時に、

張遼(ちょうりょう)は兵を伏せていた丁奉(ていほう)の矢を受け、

その傷が原因となり死んでしまいました。

なお、張遼(ちょうりょう)の正史での死因は病です。

 

三国志ライターFMの独り言

関羽(かんう)と張遼(ちょうりょう)は、武勇や忠義といった点でお互いに相手を認め合った仲でした。

乱世であったため、信じた主君が違ったため、敵同士となってしまったのは非常に悲しいことです。

しかし、このような時代でもなければ、彼らの武勇や忠義はこれほどまでにお互いを、

そして周囲を惹きつける事は無かったでしょう。

そのため、悲しいことではありますが、

このような運命にあったからこそ彼らはお互いを認め合うことができたのかもしれません。

 

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三国志は、大昔の出来事ですが、物語をいろいろな視点や切り口で見ていくと、新しくて面白い発見があるのが好きです。 人物像や対人関係、出来事、時代背景、逸話等々、古い話とはいえ、学ぶべきところはたくさんあります。 埃をかぶせておくにはもったいない、賢人たちの誇りがあります。

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