曹操軍が兵糧を気にすることなく稼動することができたのは、屯田制(とんでんせい)と言われる政策を実行したことがきっかけです。この屯田制を曹操に勧めたのは棗祗(そうし)ですが、実行に移して屯田制の効果を挙げることに成功したの人物を皆さんは知っていますか。今回は屯田制が実用的であることを証明した人物をご紹介したいと思います。
曹操に付き従う
董卓(とうたく)が洛陽に駐屯して皇帝を操り権力を欲しいままにすると各地の群雄が怒り、集結して董卓を討伐しようと考えます。曹操も董卓を討伐するために挙兵し、なんとか兵を揃えて董卓討伐軍に参加することになります。曹操軍は始め5000人ほどの軍勢で董卓討伐軍に加わるのですが、討伐軍の中ではかなり小さい勢力でした。そんな小さい勢力であった曹操に付き従った人物がおります。その名を任峻(じんしゅん)と言います。
彼は同郡にいた役人と相談して曹操に付き従うことにして、一族郎党を率いて数百人の部隊を作って曹操軍に参加。曹操は自らの勢力が小さいにも関わらず、任峻が一族郎党を率いて参加してくれたことに大いに喜び、彼に自らの従妹を嫁がせることにします。
補給部隊長として活躍
任峻は董卓討伐軍が解散した後も曹操に付き従って各地を転戦することになるのですが、彼は戦場で活躍していた人物ではありません。曹操が軍勢を率いて出陣した際は常に後方で守備に就き、曹操軍の補給を担い物資を軍勢へ届ける役目をしておりました。彼は官渡の戦いでも補給部隊として活躍しておりましたが、袁紹軍が任峻の補給部隊へ攻撃を行い壊滅したことが何度もありました。そのため彼は補給部隊に陣形を組ませて、補給物資を運ぶ車1000を一部隊として編成。この一部隊を十列にして進軍させるとともに、この補給部隊の周りを数千の軍勢で守備をさせながら官渡城や各地の戦場に補給物資を届けていきます。袁紹軍は曹操軍の補給部隊のしっかりした部隊配置のせいで、襲うことができなくなってしまったそうです。この結果、ギリギリの戦いを袁紹軍と繰り広げていた曹操軍ですが、兵糧だけはしっかりと補給されることになるのです。
三国志の武将に特化したデータベース「はじめての三国志メモリーズ」を開始しました
屯田制を発案
官渡の戦いのよりもかなり前、曹操の領土に飢饉が襲って来ることがありました。さらに雨があまり降らなかったことが原因で干魃にも襲われてしまいます。天災がダブルで襲いかかってきた曹操の領土は兵糧不足で、危険な状態になってしまいます。この状況を憂いた一人の文官がおりました。その人物の名は棗祗(そうし)といいます。ここでは屯田制の詳しい内容は今回の紹介記事と違ってしまうため割愛します。棗祗は曹操に「屯田制を施行するのが一番いいやり方でしょう」と屯田制を設置するように幾度も曹操へ進言します。曹操は棗祗の発言を受け入れて屯田制を開始します。
屯田制を実行した結果・・・・
曹操は棗祗の発案を受け入れて任峻に屯田制を実行する役職である典農中郎将(てんのうちゅうろうしょう)という役職に就任させます。任峻はこの役職に異動するとすぐに民衆を募集して、許の近くにある田畑を与えて開墾させます。その結果、兵糧庫の中は数年でいっぱいになっていくことになります。この成果がで始めてから曹操の領内の各地で屯田制が施行されていくことになります。
三国志ライター黒田レンの独り言
屯田制は最初いくら棗祗が曹操へ進言しても今までのやり方を変えようとしないので、彼は曹操へ幾度も進言します。曹操は余りにもしつこいので荀彧(じゅんいく)を呼んで棗祗と屯田制について議論させます。その結果、棗祗が荀彧を納得させたことにより曹操は屯田制を施行することになります。そして棗祗が計画して自ら行った屯田制ですが、彼が早くになくなったため任峻が跡を継いで屯田制を行っていくことになります。その結果、曹操軍は大軍であろうと兵糧を気にすることなく各地へ出陣することができ、迅速な戦い方ができるようになるのです。棗祗と任峻が協力して行ったことにより屯田制は大成功することになるのです。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書3 今鷹真・井波律子著など
関連記事:あなたが実際に兵士として戦場に行軍してみたらどれだけ大変なの?
関連記事:三国志の兵力は実際にどこまで本当なの?魏呉蜀の兵力の真実に迫る!