三国志の名将、朱霊はどんな活躍をしてきたの?魏の三代に仕えた知られざる武将

2021年8月20日


 

正史三国志_書類

 

一大歴史コンテンツとして有名な「三国志」は、歴史書としての『正史三国志』と、明代につくられた物語としての『三国志演義』からなっています。この二つは、作品の性質が全く異なるため、同じ人物についても「正史」と「演義」でその描かれ方は全く異なります。

 

朱霊

 

今回は、そんな「演義」では影が薄いものの、「正史」では非常に高い評価がなされている武将である朱霊(しゅれい)について解説していきたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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朱霊の前半生

袁紹に仕えていた朱霊

 

朱霊は冀州清河国(きしゅうせいがこく)(清河郡)の出身であり、元々は冀州を支配した袁紹(えんしょう)の部下でした。朱霊は袁紹配下で武将として取り立てられますが、ある時、朱霊の故郷である清河国で反乱が起き、朱霊は袁紹の命で反乱鎮圧に派遣されます。

 

兵士を率いる事を妄想する婁圭

 

この時、反乱軍は朱霊の家族を人質に取って朱霊に揺さぶりをかけますが、朱霊は「男たるもの、ひとたび家を出て人に仕えたら、どうして二度と家族を顧みようか」と言い放ち、涙を流しつつも家族もろとも反乱軍を攻め、家族の命を奪われながらも、勝利を収めたというエピソードがあります。

 

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曹操への仕官と「演義」の朱霊

悪の正義バットマン風 曹操

 

その後の193年(初平(しょへい)3年)頃、曹操(そうそう)が父親を殺害した仇敵である徐州(じょしゅう)陶謙(とうけん)を討伐した際、袁紹は朱霊らを援軍として徐州に派遣します。

 

曹操の器量に惚れ込み家臣になった朱霊

 

そこで、朱霊は初めて曹操と出会うことになるのですが、ここで朱霊は曹操の器量に心酔してしまい、袁紹を見捨てて曹操の陣営に加わってしまいます。

 

三国志演義_書類

 

こうして、曹操陣営に加わった朱霊でしたが、「三国志演義」ではこれ以降の朱霊は非常に情けない武将として描かれてしまっています。「三国志演義」によれば、198年(建安(けんあん)3年)に呂布(りょふ)を滅ぼした曹操は徐州を劉備(りゅうび)に任せ、翌年には劉備に袁術討伐を命じます。

 

二刀流の劉備

 

この時、朱霊は路招とともに援軍を率いて徐州に向かい、劉備と共に袁術を討伐しますが、任務を完了した後に朱霊たちは劉備に丸め込まれてしまい、兵士たちを残して自分たちだけで曹操の下に帰ってしまいます。

 

劉備と曹操

 

そして、朱霊らの兵力を吸収した劉備は曹操に(そむ)いてしまいました。

 

ブチ切れる曹操

 

これを聞いた曹操は激怒し、一度は朱霊らを処刑しようとしますが、荀彧(じゅんいく)のとりなしによって何とか朱霊は処刑を免れました。

 

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呂布

 

 

「正史」での朱霊の活躍

魏志(魏書)_書類

 

しかし、「演義」では屈辱的な目に遭った朱霊ですが、「正史」の朱霊は曹操陣営の重要な武将として重用されます。

 

曹操にコテンパにされる袁紹

 

例えば、袁紹を倒した曹操が冀州を征服した際には、冀州人として朱霊は、冀州の鎮撫に活躍しています。また、その後も荊州(けいしゅう)征伐や涼州(りょうしゅう)征伐など、曹操の重要な戦いには必ず朱霊が従軍しているのです。

 

オラオラモードで曹操を追い詰める馬超

 

特に、曹操と馬超(ばちょう)が戦った潼関(どうかん)の戦いでは、徐晃(じょこう)と共に馬超軍の背後に回る任務を果たし、馬超軍を挟み撃ちにして曹操の勝利に貢献しています。

 

行軍する兵士達b(モブ)

 

これ以降、朱霊は長安に駐屯し、涼州・雍州(ようしゅう)を押さえるとともに、漢中郡の張魯(ちょうろ)を攻める際にも大きな功績をあげました。

 

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潼関の戦い

 

 

 

曹操死後の活躍

魏の皇帝になる曹丕

 

曹操の死後、朱霊は曹操の息子である曹丕(そうひ)に仕え、今度は呉との戦いに従軍します。当時、魏の呉との戦線を支えていた名将張遼(ちょうりょう)が病に倒れており、魏にとって呉に対する押さえを強めることは必要不可欠だったのでしょう。

 

曹操・曹丕・曹叡の3代に仕えた朱霊

 

曹丕が226年(黄初(こうしょ)7年)に没すると、朱霊は跡を継いだ曹叡(そうえい)に仕え、呉との戦いを継続します。

 

虎豹騎を率いる曹休

 

229年(太和(たいわ)3年)には曹休(そうきゅう)賈逵(かき)らとともに朱霊は呉を攻撃し、危機に陥った曹休を救出するという功績を挙げています。このように、朱霊は三代にわたって魏に仕えるという息の長い活躍をした武将ということになりますね。

 

曹芳

 

243年(正始(せいし)4年)、魏の皇帝であった曹芳(そうほう)は建国の功臣20人を祀る勅令を出しましたが、この時に朱霊も張遼や于禁(うきん)楽進(がくしん)らとともに祀られました。これは、朱霊という人物が同時代の人々からも、魏という王朝を長年にわたって支えた名将として、高い評価を得ていたことを意味するのではないでしょうか。

 

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魏のマイナー武将列伝

 

 

 

三国志ライターAlst49の独り言

Alst49さん 三国志ライター

 

いかがだったでしょうか?

 

テレビを見る朱霊

 

『三国志演義』では散々な描かれ方をしている朱霊ですが、『正史三国志』をひもとけば、魏を支えた名将としての全く異なる側面が浮かび上がってきます。このように同じ人物であっても、『三国志演義』と『正史三国志』で全く異なる描かれ方をされている例は他に多く見られます。

 

正史三国志を執筆する陳寿

 

こうした一人の人物に対する多面的な描写・解釈の可能性もまた、「三国志」というコンテンツの大きな魅力となっているのではないでしょうか。

 

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曹操孟徳

 

 

 

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Alst49

大学院で西洋古代史を研究しています。中学1年生で横山光輝『三国志』と塩野七生『ローマ人の物語』に出会ったことが歴史研究の道に進むきっかけとなりました。専門とする地域は洋の東西で異なりますが、古代史のロマンに取りつかれた一人です。 好きな歴史人物: アウグストゥス、張遼 何か一言: ライターとしてまだ駆け出しですが、どうぞ宜しくお願い致します。

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