田続とはどんな人?鄧艾を斬った後、消息が途切れるざわざわ感が半端ない人物

2021年7月17日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

田続

 

田続(でんしょく)鍾会(しょうかい)に従い蜀討伐に従軍した将軍です。

 

怒って田続を斬ろうとする鄧艾

 

しかし、その後鄧艾(とうがい)に従い天然の要害の剣閣を避けて陰平から迂回して成都を目指す途中、江由(こうゆ)で鄧艾の進軍命令に反対して処刑されそうになり、その恨みで後に衛瓘(えいかん)(そその)されるままに鄧艾を斬ったとされています。

 

kawausoさん

 

さらに田続は鄧艾を斬った後、どこでどうしたのか一切の記録がない、なんかざわざわする人物でもあります。今回は、なんかざわざわする暗殺者田続の生涯について解説しましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



田続をザックリ解説

忙しい方にざっくり解答02 kawausoさん

 

では、最初に忙しい方向けに田続についてザックリと解説します。

 

1 田続は幽州右北平郡無終県(ゆうしゅう・うほくへいぐん・むしゅうけん)の人で従祖父は田疇(でんちゅう)
2 田疇の家が途絶えたので曹丕(そうひ)の命令で家を継ぐ
3 西暦263年の蜀討伐に護軍として参加し剣閣で姜維と睨み合う
4 鍾会伝記述:鄧艾が綿竹で諸葛瞻(しょかつせん)を破った後、
剣閣を退却した姜維を追撃し降伏させる
5 鄧艾伝が引く漢晋春秋の記述:鄧艾に従軍し剣閣から間道を通り進軍。
途中江由城攻略で手柄を立てるが、兵士を休ませずに山越えをする
鄧艾に諫言(かんげん)し処刑されかけて恨みを抱く
6 鍾会の乱鎮圧後、衛瓘に唆され綿竹の西で鄧艾・鄧忠を殺害

 

以上がザックリした田続についての履歴です。ここからは、もう少し詳しく田続について説明してみます。

 

関連記事:蜀滅亡の「戦犯」は誰?戦犯の定義から見てみる

関連記事:呉は無政府状態だった?呉蜀王朝の会計帳簿を見るとわかる保有財産!

 

蜀漢の滅亡

 

烏桓討伐の道案内をした田疇の跡を継ぐ

正史三国志_書類

 

田続の生没年は一切が不明です。正史三国志によれば、田続は幽州右北平郡無終県の人で従祖父は田疇でした。

 

赤鎧を身に着けた曹操

 

田疇は、白狼山(はくろうざん)の戦いで曹操軍を案内し烏桓(うかん)を討つのに大きな貢献をしましたが、曹操の封爵を固辞し隠者として西暦214年に亡くなります。

皇帝に就任した曹丕

 

本来なら田疇の子孫が家を継ぐべきでしたが、子供も全て早くに死んでいたのでしばらく放置されていました。しかし、曹丕が帝位に就くと田疇の徳義を評価して一族の田続を関内侯に命じて後を継がせたとされます。田疇の一族なら大勢いたと考えられるので、田続は選ばれるなりの能力があったと考えられるでしょう。

 

関連記事:【田疇の進言】烏桓討伐戦で曹操に助言したのは郭嘉だけではなかった!

関連記事:刑顒(けいぎょう)とはどんな人?三国志時代の曹植家に仕えていた執事

 

鍾会の乱

 

蜀征伐に従軍し剣閣から退却する姜維を追撃

三国志 剣閣のお城

 

西暦263年、田続は蜀漢討伐軍に選抜され、鍾会に従い護軍となりました。蜀の姜維は沓中(とうちゅう)より南下して魏の諸葛緒(しょかつしょ)の追撃を振り切り、天然の要害の剣閣に立て籠もります。

 

鍾会に従い護軍となる田続

 

ここで鍾会軍は膠着(こうちゃく)状態になりますが、鄧艾が自軍を指揮して剣閣を迂回し陰平から断崖絶壁を乗り越えて成都を突くプランを示し成功。鄧艾が綿竹で諸葛瞻(しょかつせん)を破ると、姜維も剣閣を守備する意味がなくなり退却します。

 

鄧艾と全面対決で敗れて亡くなる諸葛瞻

 

胡烈(これつ)田続(でんしょく)龐会(ほうかい)は退却する姜維を追撃、姜維は劉禅の降伏命令を受けて広漢の(せい)県で武装解除、胡烈に降伏しました。

 

関連記事:実は姜維は不本意な降伏をしていた?姜維を考察してみる

関連記事:孔明の愛弟子であった姜維はなぜ孔明の後継者に選ばれなかったの?

 

姜維特集

 

もう1つの説

毛布に包まり崖を転げ落ちる鄧艾(トウ艾)

 

ところが、鄧艾伝が引く習鑿歯(しゅうさくし)漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)」によると、全く別の事実が書かれています。剣閣で戦争が膠着状態になった時、田続は鄧艾の別動隊に参加して間道を迂回し江由城攻めで功績を挙げたとされているのです。

 

怒って田続を斬ろうとする鄧艾

 

その後、鄧艾が兵士を休息させず山越えをして無理に進もうとしたので、田続が諫めると鄧艾は怒って田続を斬ろうとしました。

 

田続は鄧艾に恨みを抱えており暗殺

 

この時は周囲が田続を取りなしたので処分はうやむやになりましたが、田続は鄧艾を恨み、いつか殺そうと決意したようです。1人の田続が遠く離れた剣閣と江由城に同時に存在する事は出来ないので、どちらかは嘘という事になります。

 

正史三国志を執筆する陳寿

 

ただ、田続という名前はありふれているので、鍾会軍にも鄧艾軍にも田続が在籍していて陳寿がその事に断りをいれなかったので同一人物と解釈された可能性もありますが、真相は不明です。

 

関連記事:陳寿はやはり諸葛亮びいきだった!その証拠を発見

関連記事:三国志、本当は二国志だった?陳寿最大のタブーに迫る

 

鍾会特集

 

【次のページに続きます】

 

次のページへ >

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-はじめての魏
-, ,