ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志・センテンススプリング」のコーナーです。
豊臣秀頼は本当に豊臣秀吉の子だったのか?
未だに取りざたされている超下世話な話題です。
24歳で正妻を迎え、
側室を持つもずっと子ができなかった豊臣秀吉が56歳の頃に生まれた子ですからね。
早世した鶴松が生まれたときでも53歳です。
どちらも孕んだのは淀の方でした。
疑惑が生まれてもおかしくはありません。
さて、三国志の劉備はどうだったのでしょうか。
今回はちょっと下世話な話題になりますが、ご容赦ください。
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劉禅の母親・甘氏の悲劇
劉禅の母親は甘氏です。劉備の正妻ではありません。
側室になったのは194年ごろとされています。
劉備が徐州の陶謙を助け、徐州を攻めた曹操が本拠地を張邈と呂布に奪われた年ですね。
劉備は正妻を何度も失うも、甘氏は身分が低いために側室のままだと記されています。
驚くべきは劉備が何度も正妻を失っていたという事実です。
恐らく子もいたのでしょうが生存していないということは共に殺されているのでしょう。
劉備は敗走することが多かったですからね。
実際にこの甘氏も劉備に二度も見捨てられています。
一度目は200年の劉備が曹操のもとを離れ小沛で独立したときです。
すぐに劉備は曹操に大敗し、袁紹を頼って北に落ち延びています。
残された甘氏は関羽に守られて曹操に降っています。
二度目は208年です。またも曹操に攻められた劉備は妻子を見捨てて逃走。
甘氏は長坂で趙雲に救出されました。
劉禅の母親は側室である
劉禅は207年荊州で生まれます。
母親が側室であり、自らは庶子でありながら後継者に選ばれた例は歴史上いくらでもあります。
珍しいことではありません。
奇妙なのは、甘氏が劉備の側室になって13年も過ぎてから劉禅が生まれたことです。
劉備はこのとき46歳でした。
劉備の死後、劉禅の即位に併せて、すでに亡くなっていた甘氏は皇后の追号を受けるのです。
三国志演義では甘氏は正妻の扱いとなる
不自然さを捻じ曲げようとしたのか、
三国志演義では甘氏は正妻として扱われています。
つまり劉禅は庶子ではなかったということです。
さらに甘氏は劉禅を身籠ったときに、北斗七星を呑む夢を見たとされています。
「感生帝説」です。母親が何か異物を感じて身籠ると、
天命を受けた帝王が誕生することを啓示しているというものです。
劉禅の幼名である「阿斗」はそこに起因しています。
これらはすべて三国志演義の創作です。
長坂で趙雲に救出される
そんな劉禅も曹操の進撃に遭い、劉備に見捨てられることとなります。
乱戦となった長坂の戦場で、甘氏と劉禅を救出したのは趙雲でした。
よく劉禅だけを抱いて戦場を駆ける趙雲が描かれますが、
実際は劉禅と甘氏を保護して戦場を離脱しているのです。
ちなみに三国志演義ではこのとき麋竺の妹の麋氏(同じく劉備の側室)が足を負傷しており、
足手まといになることを恐れて井戸に身を投げて自害しています。
どちらにせよ、嫡子を置いて劉備や諸葛亮孔明が
さっさと逃げるという行動をとったことは信じられませんね。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
劉備は劉禅が生まれる以前に、劉封という養子を迎えました。
もう子ができないと諦めたからなのでしょうか。
劉禅が生まれた後、劉封は劉備存命中に処刑されています。
ちなみに劉禅には異腹の弟が二人います。劉永と劉理です。
なぜか母親は不明になっています。
この話の展開に私は何か違和感を感じてしまいますね。
このあたりは三国志のタブー領域なのかもしれません。
いろいろ推測すると怖くなってきたので、ここまでにしておきます。
みなさんはどうお考えですか。
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