劉禅は蜀漢滅亡後どうなった?劉禅と子孫のその後

2022年2月20日


 

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降伏する劉禅

 

蜀漢の二代皇帝であった劉禅(りゅうぜん)は、263年の魏軍の侵攻によって降伏を決意しました。

 

無残な最期を遂げた姜維と鍾会

 

その後、姜維(きょうい)鍾会(しょうかい)らと共に反乱を起こし、成都が戦火に見舞われる事態となりましたが、劉禅自身は洛陽へと移送され、そこで余生を過ごしています。今回は、劉禅が降伏してからの生活と子孫たちのその後を紹介していきます。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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劉禅の降伏と洛陽への移送

鄧艾と全面対決で敗れて亡くなる諸葛瞻

 

劉禅は諸葛亮(しょかつりょう)の息子であった諸葛瞻(しょかつせん)綿竹関(めんちくかん)で戦死し、敵将の鄧艾が成都近郊にある?(らく)へ迫り降伏勧告をすると、それを受け入れて降伏しました。263年11月のことです。

 

蜀を滅ぼし己の功を自慢しはじめる鄧艾(トウ艾)

 

そこから魏軍の内部では不穏な自体が連続しておきます。1つ目が264年の正月に蜀漢討伐戦の功労者であった鄧艾(とうがい)が、独断専行を疑われて更迭されたこと。

 

デマを信じた兵士に鍾会・姜維が襲われ、助かる胡烈

 

2つ目が同じく功労者の1人だった鍾会が1月16日に姜維と反乱を起こして、わずか3日で鎮圧されてしまったことです。また、反乱の際に太子であった劉璿(りゅうせん)も殺されています。

 

洛陽城

 

そうした事件を経て264年3月にわずかの部下や家族とともに劉禅は洛陽へ移住。それから間もなく司馬昭(しばしょう)によって安楽公へと封じられました。安楽県は劉備の出身である幽州涿郡(ゆうしゅうたくぐん)よりも東にある漁陽郡(ぎょようぐん)にある場所です。劉家と関連が深い幽州を封土として与えられたことになりますが、劉禅自身は幽州へは行かず洛陽で1万戸ほどの土地を得て余生を過ごしました。

 

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トウ艾

 

 

 

劉禅の有名な発言「蜀は恋しくない」

劉禅に質問をする司馬昭

 

劉禅が洛陽へ移住した後に司馬昭は宴席を設け、そこで劉禅に「蜀は恋しくないか?」と訪ねました。劉禅は「恋しくない」と答えたために暗愚と言われたり、蜀漢のファンからも反感を買う原因となっています。

 

郤正

 

この話には続きがあり、側近として付き従っていた郤正(げきせい)が、次に同じ質問をされたら「1日も想わない日はない」と答えるようにと劉禅に進言しました。再び司馬昭が劉禅に同じ質問をした際、劉禅は郤正の進言どおりに答えますが、司馬昭は「郤正の言葉と似ている」と言って周囲の者と笑ったそうです。

 

司馬昭の質問に回答する劉禅

 

根拠はありませんが、劉禅は意識的にか無意識的に司馬昭に警戒されない行動をとった可能性があります。これは劉禅が降伏して間もなくの出来事であり、司馬昭も反乱には特に気を張っていたはずです。

 

司馬昭と司馬師

 

また、司馬昭は郤正の言葉に似ていると言っていますが、これは郤正が司馬昭から同じ質問をされて、同じように返していることを表しています。つまり、少なくとも郤正本人は劉禅が自分と同じ返答をすれば、こうした自体になるであろう事が予測できていたでしょう。それが分かっていながら劉禅にあえて同じ返答をさせたのは、「劉禅自身が自分の考えを持たない無害な人間である」というアピールをさせたかったのではないでしょうか。

 

君たちはどう生きるか?劉禅

 

もしかすると劉禅もそれを分かった上で郤正の言葉に従ったのかもしれません。郤正は蜀に妻子を残したまま劉禅に付き従った人物なので、劉禅が安全に過ごせるよう陰ながらフォローしていた可能性は高いです。

 

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劉禅

 

 

劉禅の子孫のその後

劉禅

 

劉禅には劉璿、劉瑤(りゅうよう)劉琮(りゅうそう)劉瓚(りゅうさん)劉諶(りゅうじん)劉恂(りゅうじゅん)劉虔(りゅうけん)という7人の子供がいました。前述したように太子であった劉璿は鍾会の反乱時に殺されています。また、劉諶の話も有名で、降伏しようとする劉禅を諌めますが受け入れられず、失意の中で妻子を殺し、自らも命を絶ちました。

 

幕末 臨終のシーン 亡くなる(死)モブ

 

劉琮は262年、蜀漢が滅亡する以前に病没。それ以外の子どもたちは劉禅と共に洛陽へ移住して生活を送りました。

 

その後、劉禅は劉璿の死によって新たに世継ぎを決める事になりますが、その際に次男の劉瑤を差し置いて、特別可愛がっていた六男の劉恂を指名。これには文立(ぶんりつ)が反対して諌めていますが、聞き入れられず劉禅の死後は劉恂が安楽公を継いでいます。

 

炎上する城a(モブ)

 

ただ、晋王朝滅亡のきっかけとなった永嘉(えいか)の乱が発生すると劉恂を始め他の兄弟、そしてその子孫たちまでもが殺されてしまいました。

 

諸葛瞻

 

また、息子たちの他にも劉禅には少なくとも3人の娘がいたと言われています。1人は諸葛瞻、1人は費禕(ひい)の子である費恭(ひきょう)、1人は関羽(かんう)の孫である関統(かんとう)と結婚しました。しかし、諸葛瞻の子の諸葛尚(しょかつしょう)は父と一緒に戦死、関統には子がなかったそうです。

 

同年小録(書物・書類)

 

費恭の子については不明ですが、早くに亡くなったと記載があるので、子がいなかった可能性が高いでしょう。仮に子があったとしても永嘉の乱で全ての子孫が殺されているようなので、劉禅の血はここで途絶えたことになります。

 

一説には諸葛瞻の次子である諸葛京(しょかつけい)が今日に残る諸葛村(しょかつむら)の子孫と呼ばれていますし、三男の諸葛質(しょかつしつ)のその後が不明なので、もしかしたらひっそりと劉禅の血脈も残っているのかもしれません。ただ、少なくとも劉備の血はその後も残っています。劉禅の弟である劉永(りゅうえい)の子、劉玄(りゅうげん)が戦火を避けて蜀の地へと逃げ延びたためです。

 

そして、旧蜀漢の領地で成漢を建国した李雄(りゆう)から、劉禅から劉恂へと受け継がれていた安楽公の爵位を賜っています。劉玄は成漢の滅亡時にも生存が確認されているので、おそらく子をなして劉備の血脈を後世に残したことでしょう。

 

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三国志ライターTKのひとりごと

TKさん(三国志ライター)

 

劉禅は蔣琬(しょうえん)の死後から親政を行っていたと言います。宦官の横行や政権内部の分裂などはありましたが、263年まで国家を運営してきたということは無能ではなかったはずです。

 

劉禅と結婚する敬哀皇后

 

また、比較的壮絶な人生を送っている劉備やその他蜀漢の重臣たちと比べると、穏やかな人生を送った人物と言えます。

 

皇帝・劉禅が住んでいる宮殿や成都を警備する伊賞

 

それが批判の原因にもなっているようですが、筆者は世渡りが上手という印象です。恐らく皇帝ではなく一介の役人クラスであっても、それなりの地位に就いて満足のいく生活を送っていたように思いますし、批判をされることもなく幸せだったのではないでしょうか。

 

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蜀漢の滅亡

 

 

 

 

 

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TK

TK

KOEIの「三國無双2」をきっかけに三国志にハマる。
それを機に社会科(主に歴史)の成績が向上。 もっと中国史を知ろうと中国語を学ぶために留学するが 後になって現代語と古語が違うことに気づく。


好きな歴史人物:
関羽、斎藤一、アレクサンドロス大王、鄭成功など

何か一言:
最近は正史をもとに当時の文化背景など多角的な面から 考察するのが面白いなと思ってます。 そういった記事で皆様に楽しんでもらえたら幸いです。

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