どうすれば蜀の二代目過保護な劉禅をしっかり教育できたの?

2017年7月23日


 

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ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく

「ろひもと理穂の三国志・教育改革」のコーナーです。

 

2020年の大学入試システムの変更にともない

小・中・高校の教育も大きく変わってきています。

ICTを取り入れているのはもはや当たり前の時代です。

インターネットやタブレットを使いこなすだけではありません。

知識をどう使い、どう表現するのか、

集団で問題を解決する手法などが問われる世の中になってきています。

「アクティブラーニング」というものですね。

グローバルな舞台で活躍できる人材の育成はとてもたいへんだということです。

 

 

蜀の二代目皇帝劉禅もこういった教育を受けていれば、

もう少しまともな政治やリーダーとしての自覚ができたのでしょうか。

 

関連記事:蜀の二代目皇帝・劉禅とケンシロウの共通点

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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全部任せっきりのお飾り皇帝

 

劉禅といえば蜀の滅亡を早めた暗愚な皇帝として有名です。

皇帝でありながら何かを決断したということがほとんど記録されていません。

この乱世にあって、何もしていなかったのではないかとすら思ってしまいます。

 

初代皇帝の劉備が死去したのが223年。

魏に降伏して滅亡したのが263年です。

大国・魏の脅威を隣り合わせにしながら40年間も蜀を存続させたわけですから、

誰かが強力なリーダーシップを発揮していたのは間違いありません。

 

 

ここで注目されるのが丞相である「諸葛亮孔明」の存在です。

三国志演義では、成都に戻った諸葛亮孔明が劉禅の酒に溺れて肥えた体を見て、

教育係の蒋琬や費禕を叱ったそうです。

諸葛亮孔明が直接注意できないのであれば、

蒋琬や費禕に厳しい教育などできようはずがありません。

 

そもそも諸葛亮孔明が何でもできてしまうので、

政治面で劉禅がいる必要性がなかったというのが劉禅を堕落させてしまった原因だと思われます。

劉禅は蜀漢の象徴的存在であり、

実務においてまったく期待されていないお飾り皇帝だったのです。

 



戦場に出たことがない劉禅

 

日本でイメージすると豊臣秀吉の後継者である豊臣秀頼が似た感じかもしれません。

大坂の陣で出陣すれば勝ち目があるにもかかわらず出陣できなかったという経緯があります。

関白が戦争するというのは受け入れられなかったのかもしれません。

 

 

劉禅も出陣した記録がありません。同じような皇帝の身分でいくと、

劉禅とほぼ同じ年の魏の明帝(曹叡)が諸葛亮孔明の北伐に対して長安まで親征しています。

魏の皇帝ですら出陣しているのに、蜀は劉禅に対してかなり過保護です。

 

【奇想天外な夢の共演が実現 はじめての架空戦記

 

諸葛亮孔明の教育に問題があるのか

 

そう考えると諸葛亮孔明の劉禅の教育に問題があったように感じざるを得ません。

自分が死んだ後のことを考えると、

劉禅が立派に自立するように育てるべきだったのです。

諸葛亮孔明は確かに三国志の英雄であり、曹操や周瑜に匹敵する天才ですが、

どうも教育だけは苦手だったように思えます。

嫡子の諸葛瞻も画家としての才能は発揮していますが、

政治家としてリーダーシップを発揮したようには見えません。

蜀を衰退させる宦官・黄皓の台頭を許しています。

 

三国志ライター ろひもと理穂の独り言

 

結論として諸葛亮孔明が厳しく教育していれば

劉禅はもっと立派な大人になっていたはず!というのが私の見解です。

もっとも「立派な大人=立派な政治家」というわけでもなく、

「立派な政治家=立派な皇帝」というわけでもありませんが・・・。

もしかしたら「過保護な劉禅」でなかったら蜀は40年間も存続できていなかったかもしれません。

これはこれで蜀内のバランスをとるにはちょうどよかったかもしれないからです。

 

 

長坂の戦場で趙雲に命がけで救われたのは何だったんだー!って

三国志ファンはどうしても思ってしまいますよね。

でも無血開城を決断したのは立派なのかな・・・。

 

皆さんはどうお考えですか。

 

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ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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