汚名返上できる?劉禅を評価できる逸話とは?


 

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劉備(りゅうび)の後を継ぎ、蜀の君主となった「劉禅(りゅうぜん)」は一般的には「暗君」という評価です。実際、小説など様々なメディアでは役立たずのように描かれることが多く、さらにその低い評価が象徴されているように思えます。

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志(本)書類

 

しかし、そんな劉禅、意外にも評価できるような逸話がいくつかあります。今回はそんな劉禅の「汚名返上」な逸話について探ってみます。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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君主になるまでの劉禅

劉禅

 

劉禅は西暦207年に誕生しました。翌年に有名な「長坂(ちょうはん)の戦い」が発生し、まだ赤ん坊の劉禅は劉備とはぐれてしまいます。

 

阿斗を劉備まで届ける趙雲

 

しかし、趙雲(ちょううん)獅子奮迅(ししふんじん)の働きによって救い出され、九死に一生を得ます。その後221年の「夷陵(いりょう)の戦い」では留守を守り、発生した反乱を諸葛亮(しょかつりょう)の指揮で鎮圧しています。

 

司馬昭の質問に回答する劉禅

 

劉備が亡くなり、蜀の君主の座に就いたのは223年、劉禅17歳の時でした。

 

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夷陵の戦い

 

 

 

劉禅の逸話1:とにかく諸葛亮の悪口は許さない

劉禅と孔明

 

劉禅は劉備に「諸葛亮を父と思え」とまで言われ、その言いつけを守り諸葛亮が生きている間は、彼にすべてをゆだねました。その間は内政、軍事ともに破たんすることなく、国内はある程度安定していました。

 

 

「有能な人物にすべてを任せる」というのは君主として大変難しいことで、大抵は大人になるにつれて側近は邪魔になり、排除したりするものです。

 

孫権に煽られて憤死する陸遜

 

呉の孫権(そんけん)も初めは群臣のアドバイスをよく聞く君主でしたが、のちには陸遜(りくそん)を憤死させたり、わがままになっていきます。

 

李邈

 

諸葛亮が亡くなったとき、「李邈(りばく)」という人物が「諸葛亮は強力な軍隊を持ち、謀反を企てていました。

 

諸葛亮に哀悼をする劉禅に毒を吐く李邈

 

彼に兵を預けることは私は不安でした。彼の死は蜀にとって喜ばしいことなのです。」と劉禅に告げます。

 

ブチ切れる劉禅

 

これに劉禅は激怒。

 

李邈を誅殺投獄する劉禅

 

を処刑します。劉禅がどれほど諸葛亮を信頼していたかがわかる逸話です。

 

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英雄の死因

 

 

劉禅の逸話2:何度も苦言を呈した家臣も処罰しない

黄皓

 

組織のトップに立った人間にとって、諫言(かんげん)(いさめること)されることは気持ちが良いものではありません。

 

劉禅に気に入られる黄皓

 

劉禅も諸葛亮の死後、宦官の「黄皓(こうこう)」を寵愛していました。

 

董允 はじめての三国志

 

しかし、古来から中国では宦官の横暴によって国が乱れたことは多々あります。側近の「董允(とういん)」は宦官を重用することを何度も諌め、劉禅もそれを受け入れています。

 

董允

 

春秋時代(紀元前6世紀ころ)、楚の(へいおう)に諫言した「伍奢(ごしゃ)」は処刑されてしまいました。それに比べ、最後まで董允の諫言を聞いた劉禅は立派だったと言えます。

 

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佞臣

 

黄皓

 

 

劉禅の逸話3:建国の功臣をしっかり評価した

君たちはどう生きるか?劉禅

 

劉禅の最大の功績は「蜀の功臣を評価した」ことではないでしょうか。

 

260年、劉禅は「関羽(かんう)張飛(ちょうひ)馬超(ばちょう)黄忠(こうちゅう)龐統(ほうとう)、趙雲(翌年)」に「諡号(しごう)(貴人や高徳な人に死後に送る名前)」を贈っています。これは蜀を作ってくれた武将たちに対する劉禅の感謝の気持ちの表れであるとともに、現在の蜀の名将の評価にもつながっていることでしょう。

 

父の代の武将たちをおろそかにすることはせず、しっかり追悼したのは素晴らしいことです。

 

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劉禅の逸話4:あっさりと降伏し、多くの人民を救った

費禕の没後、北伐の準備に取り掛かる姜維

 

263年、魏は蜀に侵攻します。姜維(きょうい)の北伐で、国が疲弊し、劉禅が宦官を重用し、内政が乱れた結果でした。

 

前人未到のルートで蜀にたどり着いた鄧艾(トウ艾)

 

蜀軍は姜維が天然の要害「剣閣(けんかく)」にて魏軍を必死に防ぎますが、魏の名将「鄧艾(とうがい)」が前人未到のルートで蜀に侵攻、成都に迫ります。

 

劉禅

 

これを聞いた劉禅は家臣の勧めに従い、一戦も交えずに降伏します。

 

剣を石にたたきつけて剣を折る姜維

 

この報に抵抗していた姜維軍は剣を岩に叩きつけてくやしがった、と言います。

 

鄧禹と兵士

 

この「戦わずにあっさり降伏」したことは軍人としては評価が分かれるところです。しかし、蜀の人民にとっては多くの血が流れることなく、土地も荒されることも無かったので良かったのではないでしょうか。ギリギリまで抵抗した国家がどうなってしまうかは数々の歴史が証明していると思います。

 

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トウ艾

 

蜀漢の滅亡

 

 

三国志ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

正史「三国志」の著者「陳寿(ちんじゅ)」は劉禅について「優れた宰相に従っていたときは理にかなった君主であったが、最後は宦官に惑わされ暗君になってしまった。“白い糸は染められるままに何色にも変ずる”、という事だ。」と評価しています。

 

劉禅に降伏を勧める譙周(しょうしゅう)

 

「白い糸~」の所は周りの人間が優秀ならその通りに、周りが暗愚ならその通りになってしまうという意味で、今でも人物評価に仕えますね。陳寿は蜀に仕えていたので、劉禅と面識があったかもしれません。もっと詳しい劉禅について聞いてみたいものです。

 

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劉禅

 

 

 

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みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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