【李傕・郭汜祭り 3日目】殺されてしまった悲劇の樊稠(はんちゅう)

2017年8月21日


 

 

樊稠(はんちゅう)李傕(りかく)郭汜(かくし)というマイナー武将より

さらに輪を掛けてマイナーです。

ただし、決してザコではなく、脳筋気味ではありますが、馬騰や韓遂のクーデターを

撃退する戦術的な勝負勘を持っていました。

その為というか、やはりというか、仕方ないというか、当然というか、

この武勇を器の小さい李傕に恐れられ、早期に三国志から消えてしまうのです。

 

前回記事:【李傕・郭汜祭り 1日目】凶悪!董卓を上回る暴君李傕の履歴書

前回記事:【李傕・郭汜祭り 2日目】凶暴さでは李傕に劣らない郭汜のバイオレンスライフ

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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疑われる種はすでに、、韓遂と同郷人

 

樊稠は涼州の金城(きんじょう)郡の出身で、あの産まれついての反乱気質がある

韓遂(かんすい)と同じ郡です。

他の涼州の武将と同様に、歴史に出現するまで何をしていたかは不明ですが、

役人であれば、どこかに記録が残りそうなので、董卓(とうたく)の部曲(私兵)で

あったというだけなのでしょう。

 

西暦189年、親玉の董卓が後漢王朝内の内紛につけ込んで洛陽に入城すると、

樊稠も李傕、郭汜と言うような仲間と共に官軍となります。

以後、反董卓連合軍の攻勢により、董卓が洛陽を焼いて退却すると、

それに従い、長安の周辺に駐屯する事になります。

 

 

董卓が暗殺されると、李蒙、王方と山賊化し、李傕・郭汜軍と合流

 

西暦192年、権勢を奮った董卓は、腹心の呂布(りょふ)の裏切りで

あっさり暗殺されます。

呂布を唆した王允(おういん)は、そのまま政権の中枢に座り、

呂布との連合政権を樹立しました。

 

ところが王允は、極端に器量が狭く、僅かでも董卓に関与したものは許さず粛清、

その中には、学者として高名な蔡邕(さいよう)もいました。

 

これでは董卓時代と変わらないと人心も急速に離れていきました。

特に、王允は、元の董卓の配下である涼州勢の降伏を許さず、

寛大な処分を進言する呂布の提案も却下します。

 

こうして長安では、涼州人は皆殺しにされるという風聞が流れました。

 

樊稠は恐ろしさを感じ、味方の李蒙(りもう)や王方(おうほう)と山賊化して

反王允の涼州人を集めて強大化していきます。

 

熱き漢たちが今年の夏も躍進する 李傕・郭汜祭り

 

李傕・郭汜の長安攻めに呼応して王允を撃破

 

そこへ、陝県から董卓の弔い合戦を標榜した李傕と郭汜の軍勢がやってきます。

二人も赦免の許しがない事から、賈詡(かく)のアドバイスを入れ長安を攻め落とし

王允を亡きものにしようと腹を括ったのです。

渡りに船と、樊稠は李蒙や王方と共に軍を率いて合流し、李傕・郭汜軍は

10万の大軍に膨れ上がり、呂布も抗戦を諦めて長安を脱出。

王允は殺害され、長安の支配権は李傕・郭汜の手に落ちました。

 

樊稠は功積により、右将軍、万年侯に封じられます。

郭汜が後将軍なので、将軍としての地位は同等ですが、大将の李傕との

親密さでは劣り、李傕政権のナンバー3となります。

 

馬騰、韓遂が反乱を起こす

 

李傕が政権を樹立して間も無く、かつては董卓と争っていた馬騰(ばとう)と

韓遂(かんすい)が降伏してきました。

 

李傕は喜びますが、韓遂が策士である事を知っていたので、

鎮東将軍に任命して故郷に返し、馬騰は征西将軍として郿(び)に置きました。

ところが、馬騰は同じ涼州出身という事で、慣れなれしい部分があったのか

李傕に個人的なお願いをし、それを気に入らない李傕は黙殺しました。

 

馬騰「この野郎、元は俺と同じ涼州の塵にまみれていた癖に、

帝を擁している程度で、お高くとまりやがってよお~」

馬騰は、こうして、李傕に反感を募らせ、クーデターを計画します。

これを知った韓遂は止めるつもりでやってきて、逆に説得されて、

クーデターに加担する事になってしまいます。

 

樊稠、郭汜と協力して、馬騰を追い払い反乱を鎮圧

 

計画には侍中の馬宇(ばう)、諫議大夫の种卲(ちゅうしょう)、左中郎将の

劉範(りゅうはん)が参加します。

まず、郿にいる馬騰が長安に攻め込んで、それに呼応して長安の内部で

馬宇等がクーデターを起こして城門を開き、李傕一派を皆殺しにする

というような計画でした。

 

ところが、馬騰が長平観まで進軍した所で計画がバレます。

怒り狂った李傕は、樊稠と郭汜に出撃を命じます。

 

樊稠はまず、長平観で馬騰・韓遂の軍勢を撃破、負けた馬騰は涼州へ逃げ帰ります。

さらに、クーデターに失敗して槐里(かいり)に逃げた馬宇等を滅ぼします。

しかし、この時、樊稠と郭汜の軍勢は、まだ数十万戸あった三輔(長安周辺)に

容赦なく掠奪を行い、虐殺を繰り返しました。

 

これにより、三輔の人口は激減し、食糧もなくなり、両二年の間、

飢えた人々はお互いを喰いあい、人口は消滅したそうです。

 

韓遂と会話していた所を李利に見られ、李傕に疑われる

 

しかし、馬騰と韓遂の軍勢を陳倉まで追っている間、樊稠はミスをしていました。

逃げていた韓遂が単騎で樊稠に近寄ってきたのです。

 

韓遂「私は何も私欲に従い、今回の企てに参加したわけではない。

李傕の暴政を座視できず、義憤によって立ったのである。

よって、同郷の君には何の怨恨も無い、君もそうだろう?」

 

韓遂は策士ですが、天真爛漫な所があり、人の心を掴むのが上手い男です。

同郷をキーワードに樊稠の懐に入り込んだのです。

 

韓遂「このような乱世だ、、次にはもう出会えんかも知れない

これが最期かも知れんのだ、どうだ、ここは武器を置いて、

お互いにつもる話をしないか?」

 

樊稠「・・・・確かに」

 

こうして、韓遂と樊稠は、お互いの騎兵を遠ざけて、二人だけで

腕をくみかわして、和やかに談笑しました。

韓遂は、遥かに後に曹操(そうそう)とも、この口馬語をやっていますが、

どこか、人に親近感を抱かせる風貌だったかも知れません。

ところが、一連の行動を李利(りり)という男が見ていました。

 

李利(樊稠のヤツ、、本当は手を抜いて韓遂を逃がすのではないか?

胡散臭いやつだ・・)

 

樊稠にとって不幸だったのは、この李利が李傕の兄の子だった事です。

李利は御注進とばかりに、樊稠と韓遂が親し気に談笑していた事を

臨場感たっぷりに語ります。

 

器量が小さい李傕は果たして、樊稠を疑い出しました。

 

李傕(樊稠め、、本当は韓遂と通じておったか、、騙されんぞ、、

わしの地位は誰にも渡しはせん、、)

 

樊稠 李傕の手によって殺害される

 

194年8月には、馮翊(ふうよく)の羌族が反乱したため、

樊稠は郭汜と協力して、これを撃破しました。

しかし、李傕は手柄を立てれば、立てたで、ますます樊稠を疑います。

195年2月、樊稠は函谷関を出撃したいので増兵を願いたいと李傕に要求、

李傕に招かれて宮廷内の会議に参加した所をいきなり李傕に糾弾され

その場で斬殺されてしまいます。

 

また、後漢書 献帝記に引く董卓伝では、李傕は樊稠の影響力が強く、

配下の人望も厚く、大っぴらには殺せないので、これに大酒を飲ませて

部下の騎都尉、胡封に殺害させたともあります。

 

李傕郭汜祭 kawausoの独り言

 

勇猛で、軍略の才もあった樊稠を殺したのは、李傕軍の力を大きく低下させます。

郭汜は個人の武勇はありますが、軍略の才はあまり無いようで、

馬騰と韓遂のクーデターの部分では、名前が出るのは樊稠ばかりです。

もしかしたら、韓遂が樊稠を交馬語に誘ったのは、こうして李傕に疑わせて、

樊稠を排除する為だったかも知れません。

 

そして、それが正しいなら、韓遂に取って、李傕と郭汜は樊稠よりは、

ずっと御しやすいザコだったと言えるかも知れませんね。

 

次回記事:【李傕・郭汜祭り 4日目】献帝帰還の功労者の惨めな最期 張済(ちょうさい)

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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