董太后、王族ボンビーから一転セレブ 献帝の祖母の波瀾人生


※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。

 

三国志の時代、女性は役人になる事が許されず、殆どが無学文盲でした。

当時の女性は、10代も半分を過ぎると親が決めた縁談で嫁いで行きますが、

みずからの手で稼ぐ術がないので、夫に早く先立たれると、大体が再婚し

夫の財産や息子達の孝行で余生を過ごすのがスタンダードだったのです。

 

このように、女性の自立は、現在よりも何百倍も難しい時代でしたが、

それでも運命を切り開き、逞しく乱世を生き抜いた女性もいました。

今回、紹介する董太后(とうたいこう)も、そんな女性の一人でした。

 

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河間劉氏に嫁いで皇帝の子を産む事を望まれた董太后

 

董太后は前漢時代に王国が置かれた河北省の河間(かかん)に誕生しました。

河間劉氏は後漢の3代皇帝である章(しょう)帝と申(しん)貴人の間に生まれた

河間(かかん)王劉開(りゅうかい)の系統に連なる名門で河間王家と呼ばれ、

もちろん、彼女の実家の董氏も娘を然るべき劉氏の王子と結婚させて、

あわよくば皇帝の外戚となろうと虎視眈々だったのです。

 

実際に、当時の11代皇帝、桓帝(かんてい)も河間王家の出身でしたから、

「これは来るかもしれん」という期待もありました。

 

ただし、河間王家と言っても、100年近くも時が流れると、

劉開の子孫は本流から傍流まで膨大な数に上ります。

そんなわけで董太后が嫁いだのは、残念ながら傍流の

解瀆(かいとく)亭侯 劉萇(りゅうちょう)の所でした。


夫に先立たれ、王族なのにボンビー生活に

 

董太后の不運は、これで終わりではありませんでした。

西暦156年、嫡男である劉宏(りゅうこう)が生まれてから、ほどなく、

夫である劉萇は病死し、元々、裕福ではなかった劉家の生活は

収入源を絶たれ、さらに貧しくなっていったのです。

 

周囲の劉氏は、それぞれ役職も与えられ裕福な生活が出来ているのに、

董太后だけは夫に死なれ、幼い劉宏を抱え窮乏生活に耐えねばなりません。

元々、将来の皇帝の元に嫁いで男子を産めと教育された良家の娘である

董太后にとって、これは大きな屈辱でした。

 

名前だけが王族で、生活は平民同然、劉氏からも平民からも、

好奇と憐れみの視線に曝されつつ、彼女はお金と王族の地位に対して

異常な執着を見せるようになります。

 

「今にみてなさい、、我が子、宏が大きくなったら、きっと

立派な役職に就かせて、うんとお金を稼いでみせる・・

二度と、こんな貧乏生活に戻るものかッ!」

美しい深窓の令嬢は、貧乏生活ですっかりやさぐれてしまい、

ただ、ただ、我が子、劉宏の出世を望みに苦しい毎日を乗り越えていました。


貧しさ故に奇跡が・・劉宏 皇帝に指名される

 

ところが、運命とは不思議なもので、貧しく何の後ろ楯もない

母子家庭の劉家にある日、突然奇跡がやってきます。

 

西暦168年、11代の桓帝が崩御、娘しかいない桓帝には

後継者がなく、桓帝の重臣だった陳蕃(ちんばん)と外戚の竇武(とうぶ)が相談し、

河間王家に連なる劉宏を12代皇帝に指名したのです。

 

しかし、ここで疑問が湧きます、河間王家には、

他に幾らでも後継者候補はいるのに、どうして傍流の

しかも母子家庭の劉宏を選んだのでしょう。

 

実は、陳蕃と竇武は後ろ楯がない少年皇帝を即位させ、意のままに操り

来るべき宦官勢力との戦いを有利に進めたい思惑がありました。

つまり、貧しく母子家庭であった事だけが劉宏が皇帝に

選ばれた決定打だったわけです。

 

ああ、因果はあざなえる縄の如し、董太后と劉宏を苦しめた貧乏は

二人を皇帝という地上最高の地位に導く福の神でした。


  

 

金の亡者になった董太后 霊帝に錬金術を授ける

 

霊帝が即位した翌年、陳蕃と竇武は宦官勢力に戦いを挑み敗北します。

これにより宦官は宮廷の全権を掌握、まだ12歳の霊帝には、

政務を執る力はなく、政治は宦官が完全に牛耳る事になります。

 

しかし、董太后は、政治の事には殆ど関心がありませんでした。

貧しさの中に追い込まれた彼女の眼中にあったのは、皇帝の母として振る舞い

華やかで贅沢な毎日を送るという薔薇色の未来です。

 

それは貧しさの中で育った劉宏、いまや皇帝となった霊帝(れいてい)も同じですが

先代の桓帝も散々贅沢した為に宮廷の庫は空っぽでした。

少年霊帝が呆然としていると、そこに董太后がやってきます。

 

「帝、落ち込む事はありませぬ この母に名案があります

漢王朝には、ピンからキリまで沢山の官職が御座いますから、

これをお金で売買すれば良いのです」

 

こうして、董太后は漢王朝の官職に値段をつけて

売り買いする売官という錬金術を産み出します。

しかも、回転率を良くする為に役職は1年や半年の期限つきにし

多くの人間が買えるように工夫し期限内なら転売も認めました。

 

また、現在お金がなくても、収入見込みがあれば、代金は後払い可という

現代のクレジットカードのようなシステムまであったようです。

これで売官が投機化しないわけはありません、売官バブルの到来です。

 

売官のアイデアが彼女のモノか宦官にもらったアイデアか

詳しい事は分かりませんが、売官は多額の利益を董太后と

霊帝にもたらす事になります。

 

董太后、嫁の何皇后とバトルを開始

 

霊帝には皇后の宋氏がいましたが、あまり仲が良くなかったので

彼女を廃して、代わりに何(か)夫人を皇后の位に就けました。

この何皇后の実家は荊州南陽郡で手広く商売をしている肉屋です。

 

彼女は、161センチと長身の美女、男勝りで威勢が良いのを

ある宦官が見込んで後宮に入れたのですが、持ち前の美貌と度胸の良さで

後宮でも目立つ存在になり、たちまち霊帝が夢中になり皇后まで駆けあがります。

こうして西暦174年、何皇后は男子を出産しました。

後に少帝として即位する劉弁(りゅうべん)です。

 

ところが、董太后は何皇后が気に入りませんでした。

彼女が勝ち気であり、また庶民の出身である事が気に障ったかも知れません。

河間王家に嫁いだだけあり、董太后の身分への拘りは強固でした。

 

良家の子女で才色兼備の王美人登場・・

 

当初は何皇后に夢中だった霊帝ですが、次第に権力の為には手段を選ばない

彼女の残忍な一面に怯え、幻滅するようになります。

 

そんな時に、王美人という女性が霊帝の後宮に入ります。

彼女の祖父は王苞(おうほう)と言い五官中郎将、いわゆる良家の子女でした。

王美人はプロポーション抜群な上、聡明な女性で書と会計が得意という才女

さらには控えめな性格だったので、がらっぱちな何皇后に辟易した霊帝は

これまた、たちまち王美人に夢中になります。

 

そして霊帝以上に、王美人を気に入ったのは董太后でした。

 

「おやまあ、何と控えめで品のある娘じゃ、、

あの色気を振り撒く下品な平民女とは雲泥の差ではないか」

 

さらに程なくして王美人は懐妊します。

何皇后は顔色を失いイライラして周囲に当たり散らし、

一方で董太后は大喜び、霊帝に

「生まれた子が男子なら必ず皇帝にしなさい」と

頻りにアドバイスしました。

 

何皇后は子供を流産させようと宦官を買収し王美人に

毒薬を飲ませましたが効果はなく、月は満ちて王美人は男子を出産します。

この子が劉協(りゅうきょう)で、後漢最後の皇帝、献帝(けんてい)です。

 

こうして、霊帝には二人の男子が生まれ、何皇后と董太后のバトルは

さらに熾烈さを極める事になります。

 

何皇后 王美人を毒殺 董太后は孫の劉協を養育

 

追い詰められた何皇后は、王美人を宦官を使い毒殺させます。

しかし、これはあまりにも性急なやり方でした。

すぐに事件は調べられ何皇后の関与が明らかになったのです。

 

霊帝は悲しみ激怒し、何皇后を廃すると宣言します。

恐れた皇后は宦官に多額の賄賂を贈って助命を請いました。

宦官達は霊帝を何度も説得し、とうとう霊帝は何皇后を

赦してしまいます。

 

まだ赤ん坊の劉協は何皇后による暗殺を回避する為に

祖母である董太后が養育する事になりました。

王美人が死んでも、まだ次期皇帝を巡るバトルは

終わる様子を見せなかったのです。

 

霊帝崩御 二人の女の戦いは佳境へ

 

董太后は霊帝に会う度に、

「次の皇帝は王美人の産んだ劉協にしなさい」と言い

これを憎んだ何皇后は董太后を激しく恨むようになります。

 

霊帝も、寵愛する王美人を殺した何皇后を感情的には赦してはおらず、

母を失った不憫な劉協を後継者にする事で意思が固まっていました。

こうして、何皇后は追い込まれますが、ここで大事件が起きます。

 

西暦189年、霊帝がハッキリと後継者を宣言する前に崩御したのです。

ここで董太后の優位は崩れ、宮廷は董太后が頼りにする同族の票騎将軍、

董重(とうじゅう)と何皇后の異母兄、何進(かしん)大将軍による

武力衝突の様相を帯びていきます。

 

董太后、洛陽を追放され失意の生涯を閉じる

 

先に動いたのは何皇后でした、兄の何進と協力して後宮の宦官勢力と、

清流派の官僚達を抱き込んで息子の劉弁を即位させたのです。

こうして何皇太后になった彼女は、しつこく宮廷にやってくる董太后の

宮殿への出入りを禁止して排除しようとします。

 

激怒した董太后は

「肉屋の娘風情が調子に乗りおって!私が票騎将軍に命じれば、

何進の首など、あっという間に取れるのだぞ」と口走りました。

 

董太后としては、脅し文句だったかも知れませんが、

何皇太后は、この捨て台詞で董太后を完全に排除する決意をし、

すぐに兄の何進を呼び寄せ、善後策を協議し対策を練りました。

 

間もなく、少帝より董太后に対して故郷に帰還するように勅令が出ます。

宦官勢力と結託して国家を転覆させようとしたというのが理由です。

嫌がる董太后ですが、勅命に逆らえる筈もありません。

 

董太后が洛陽を追放されると、何進は出兵し票騎将軍董重の屋敷を包囲します。

すでに後ろ楯の董太后がいない董重には抵抗の術もなく逮捕され免職となり

将来を悲観した董重は自殺しました。

 

それを故郷で聴いた董太后は、今更ながらに何皇太后の恐ろしさに震え

次は自分が殺されるのではないかと怯えて精神を病んでしまいます。

皇帝だった息子と票騎将軍の董重を失った彼女は、今や太后とは名ばかり

いつやってくるか分からない暗殺に恐怖するただの老女でした。

 

そしてストレスに耐えきれなくなった董太后は間もなく病気にかかり

波瀾万丈の人生を閉じたのです。

 

悪気なく悪事をした平凡なお嬢様の生涯

 

董太后の始めた売官は、まがりなりにも能力主義で運営された

後漢王朝の官僚機構を完全に腐敗させてしまいました。

官職は莫大な富を産む投機の対象になり、賄賂を取っては、

さらに上の役職を買う官職トレーダーが続出して政治は麻痺します。

一番苦しんだのは、賄賂の為に何度も税金を絞られた庶民でした。

 

 

董太后、王族ボンビーから一転セレブ 献帝の祖母の波瀾人生

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コメント

  • コメント (1)

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    • 匿名
    • 2019年 9月 08日

    袁紹や袁術のことを調べていて偶然知ったのですが、演義では正義サイドとして描かれる献帝の養い親として悲劇の人みたいな扱いをされている董太后ですが、ここで挙げられている売官の本にも、いろいろと悪質な専横をふるっていたようですね

    徐 璆
    https://ja.wikipedia.org/wiki/徐キュウ
    >当時、董太后の姉の子である張忠が南陽太守であり、権勢を利用し不正に財を蓄えていた。
    董太后は宦官を遣わして、徐璆に張忠を目こぼしするよう頼んだが、徐璆は「私は国のために敢えて命令を聞きません」と答えたので、董太后は怒って張忠を司隷校尉とし、徐璆を監察し得る地位とした。
    徐璆は着任すると張忠や他の5郡の汚職を摘発した。
    中平元年(184年)、黄巾の乱の際には中郎将朱儁と共に宛の黄巾賊である韓忠達を破った。
    しかし張忠が徐璆を恨み、宦官と結託して在りもしない罪をでっち上げたため徐璆は召喚され、黄巾賊を破った功績と相殺して処罰はされずに罷免された。

    ・・・これなんかを読むと、演義で無条件に正義側として描かれている献帝を育てた不幸な役回りの董太后も、じつは何皇后と同じ穴の貉だったのではないのかなという印象を抱いてしまいますし、また調べてみればさして前漢との繋がりも薄い、たかだか200年程度の歴史しかない後漢朝は滅んでも当たり前だったとも思います
    少なくとも後漢朝は中国の歴史上、そんな絶対視しなければならないほど特別な存在の王朝だったとも思えないですし、一過性の歴史上よくある平凡な王朝の一つに過ぎないというのが正直な印象です

    ところで袁術関連を調べていてWikiで偶然知った徐キュウという人、袁術が所持していた伝国璽を見つけ献帝のもとへ帰したり、曹操が後に丞相を拝命する際、徐璆がその使者となったりと結構な役どころですし、もっと注目され評価されて然るべきじゃないでしょうか

    三国志の世界には、まだまだこういう無名ながら埋もれている存在が数多くあるのも魅力の一つですね




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