諸葛孔明から後継者として名指しされた費禕(ひい)。
蔣琬の跡を継いで蜀の国政を担うトップに就任することになります。
彼は曹爽(そうそう)と司馬仲達(しばちゅうたつ)の間で起きた
魏の政変(高平陵の乱)について二つの見解を述べて評価を下しておりました。
さて彼が評価を下した高平陵の乱の見解とはどのようなものであったのでしょうか。
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高平陵の乱が勃発
魏の曹芳(そうほう)の時代、
曹爽は司馬仲達を押しのけて魏の政治・軍事における実権を握っておりました。
しかし司馬仲達は曹爽から魏の政治・軍事における実権を取り返すため、
チャンスを伺っておりました。
そしてついにそのチャンスがやってきます。
曹爽は皇帝や一族を連れて先代の皇帝達のお墓参りに出かけるため、
魏の首都である洛陽(らくよう)から出てかけていきます。
司馬仲達は先代の郭皇后を味方につけて曹爽の専横を批判し、
クーデターを実行。
曹爽は司馬仲達がクーデターを実行したことを知ると彼に逆らうことをしないで降伏します。
その後司馬仲達は曹爽の一族や彼に味方した側近などを次々と処断し、
司馬家が魏の中枢を支配することに成功します。
この政変を後に高平陵の乱というのですがこの魏の政変は蜀にも知らされてきます。
費禕の見解その1:司馬仲達の行為は民意に沿っている
高平陵の乱が勃発した際、蜀のトップに君臨していた蜀のスーパー丞相・費禕。
彼は魏の政変について二つの見解を述べておりました。
彼の一つ目の見解「曹爽兄弟はポンコツであったが魏の皇族一員であり、
曹叡(そうえい)から遺命を託された人物である。
先代の皇帝から遺命を託されたにも関わらず調子に乗って豪華な暮らしをし、
才能のない人物と付き合い国家を見出そうとしていた。
司馬仲達は彼らを討伐して国家を正すことに成功したことは
民衆達の期待に沿った物であると思う」と自らの考えを述べます。
では二つ目の見解はどの様なものなのでしょうか。
費禕の見解その2:曹爽に反逆する意思は無かっただろう
費禕は高平陵の乱においてもうひとつの見解を述べます。
その見解は一体どのようなものなのでしょうか。
彼はこのように述べておりました。
費禕の見解その2「司馬仲達は曹叡が自分ひとりに遺命を託さなかったことに対して、
不満を持っていたのではないのであろうか。
その理由として曹爽が政権を握った時に一切忠告や注意をして
彼を諭すような事をしなかった事が証左といえよう。
また私が思うに曹爽は反逆するつもりはなかったのではないのであろうか。
もし本当に司馬仲達に対して反逆を行うのであれば、
しっかりと軍勢を準備してから外出するつもりである。
しかし曹爽は皇帝と一族、側近だけを連れて外出しており、
軍勢をほとんど連れていない状態でどうやって、
司馬仲達に反乱を起こすことができるのであろうか。
これらをまとめれば曹爽が反逆するつもりが無かったと言えるのではないのであろうか。
司馬仲達は曹爽を処断する理由として彼が調子に乗って豪華な暮らしや
権力の乱用を理由に彼を処刑したらしい。
それは私も一向に構わないと思うが、しかし彼の幼い子供まで殺害して曹真(そうしん)の血脈を絶やし、
曹操の娘を娶っていた何晏まで殺害するのはやりすぎではないか」と
述べております。
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三国志ライター黒田レンの独り言
費禕が評価した高平陵の乱は二つの意見を出して評価を下しておりました。
レンが考えるに曹爽が反乱を起こす意思を全くもっていなかったにも関わらず、
司馬仲達が彼の一族や側近まで全てを殺害させたのはやりすぎではないかと
いう意見に賛成です。
確かに司馬家が権力を握るためには敵対者であった曹爽の一族すべてを殺害して、
恨みを残さないようにしなくてはならないと思います。
しかし幼い子供まで殺害する理由があったのでしょうか。
これは少しやりすぎではないかなとレンは考えるのですが、
皆さんは費禕のどちらの意見に賛同できますか。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志蜀書 今鷹真・井波律子著など
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