戦争の途中、遠く離れた味方と細かい連絡を取りたい時、無線がない時代は、文書を持たせて伝令を出すしか方法がありませんでした。
しかし、それは、敵も狙っている事であって、伝令を捕えて文書を奪い取り、敵軍の動向を探る大事な情報源としていたわけです。そこで、万が一、敵に文書が渡っても、意味が分からないようにする工夫がされます。これが暗号の始まりで三国志の時代には陰符(いんふ)と陰書(いんしょ)がありました。
長さに意味を込めた三国志の時代の暗号 陰符
陰符とは、何も書かれていない一定の長さの竹簡や木簡です。ちょっと見ると、見逃してしまいそうですが、そこが、この陰符のミソでして実は、こちらの陰符には、文字でなく札の長さに意味があるのです。その陰符に込められた意味の一例が以下になります。
1尺(当時22~23センチ)敵に大勝した
9寸 敵を撃破し、その将を捕虜にした
8寸 敵の都市を攻略した
7寸 敵を撃退し遠くに知らせる
6寸 軍隊が堅い防御に入っている事を警告する
5寸 食糧の補給と兵士の増強を希望する
4寸 戦闘に敗北し将を失った
3寸 戦況は不利で兵士を失った
陰符はあらかじめ、どのような材質の札を使うか、長さをどうするか?そこを取りきめれば、仮に敵に簡を押収されても、情報がバレないように出来ました。しかし、陰符で伝えられるメッセ―ジは短いものであり、さらに細かい内容を伝えるには、不向きであると言えます。
立て書きの木簡を横にして、3つに分離 陰書
そこで、ある程度、まとまった情報を遠く離れた味方に伝える為に編み出したのが立て書きの札を横向きにして文字を書き、それを3つに分離した陰書でした。
陰書は、画像のように本来縦書きの漢文を札を横向きにして書きます。こうしてから、木簡をバラバラにして3等分すれば、仮に敵の手に一部が渡っても、何を書いてあるのか相手には分かりません。
この暗号作戦は、六韜(りくとう)の龍韜(りゅうとう)にもあるもので、中国の戦国時代、つまり、キングダムの時代には、すでに存在していた暗号なのです。三国志の戦場では、このように陰符や陰書が飛び交い、暗号を用いた騙し合い、情報戦が展開していたのです。
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今回は、サラリーマンなら、誰でも一度は手にした事がある勤務評価について
当時の資料を元に解説してみます。
1800年前にも存在した勤務評価表には何が書かれていたのでしょうか?
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曹操が編み出した暗号 羽檄
暗号繋がりでは、三国志の英雄、曹操(そうそう)も、独自の暗号を産みだしています。こちらは、陰符に近いもので、板に鶏の羽根を差した羽檄(うげき)というものです。羽檄の意味は、「大至急援軍を頼む」というものでしたが、歴史では、曹操の羽檄が大成功を収めた記録があります。
西暦228年、国境の北に出征した魏の護烏丸校尉(ご・うがんこうい)田予(でんよ)が馬邑城において、鮮卑(せんぴ)族の大軍に包囲された事がありました。田予から救援を求める文書を受け取った雁門(がんもん)太守、牽昭(けんしょう)はただちに援軍を派遣しようとし、軍事行動を命令違反と制止する州を押し切り出陣。
途中、曹操が開発した羽檄を周辺の城に送り、同時に馬邑城にも送ります。羽檄を見た馬邑城の田予と将兵は援軍が来ると安堵して士気が上がり逆に鮮卑族は魏の援軍が来ると知って怯え、一部が脱走します。これによって、牽昭の援軍は成功し、馬邑城は見事に解放されたのです。
三国志ライターkawausoの独り言
以上、陰符と陰書、それに曹操が編み出した羽檄について説明しました。それにしても、時代が進んだとはいえ、現在の暗号も文言を数字に置き換えて乱数化し、特定の暗号機に掛けないと相手が傍受しても分からなくしたりパスワードを掛けてそれが解けないと内容が分からなかったりとかなり高度になっていますが、基本的な部分は陰書とそれほどには変化していないように感じますね。
※この記事は三国志軍事ガイド 著者 篠田耕一を参考に書いています。
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