宿命のライバル?何度も激闘を繰り広げた姜維と鄧艾

2017年12月18日


 

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※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。

 

三国志には、実に沢山のライバルが出現します。

劉備(りゅうび)曹操(そうそう)孔明(こうめい)司馬懿(しばい)

ずっと後半には、晋の羊枯(ようこ)と呉の陸抗(りくこう)等です。

実際、このようなライバルの存在が三国志に彩りを与えていると言えるでしょう。

今回取り上げる孔明の後継者、姜維(きょうい)にも魏の鄧艾(とうがい)という

超手強いライバル?が存在していました。

今回は、お互いに国を背負って戦い続けた二人のライバル物語を紹介しましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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北伐に至るまでの二人の人生の歩み 姜維(きょうい)

 

姜維は元々魏の武将でした、涼州の天水郡冀県出身の豪族の子であり、

第一次北伐では、天水太守の馬遵(ばじゅん)と共に蜀軍を偵察に出向きますが

馬遵は、蜀軍の計略で、天水の豪族が寝返ったのではないかと姜維を疑い逃亡。

城に閉じこもり、後を追ってきた姜維の軍勢を入れようとしませんでした。

 

やむなく姜維は蜀軍に投降しましたが、その卓抜した戦術眼を

諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)に見込まれて登用され、

以後は孔明の愛弟子として付き従い、戦いのキャリアを積み重ねていきます。

 

西暦234年の孔明の死後は、孔明の悲願である魏の打倒を使命としましたが、

蔣琬(しょうえん)費禕(ひい)が丞相の時代には、制約があり動く事が出来ず、

実際に軍権を握り大軍を動かせるようになるのは、費禕の死後である西暦253年で

姜維は、すでに51歳になっていました。

 

漫画等だと、若々しく描かれる姜維ですが、本格的に采配を振るえるように

なったのは、50代に入ってからなんですね。

 



北伐に至るまでの二人の歩み 鄧艾(とうがい)

 

鄧艾の出自は姜維とは反対で、汝南の屯田民の子として誕生します。

屯田民とは、土地を離れた流民が曹操(そうそう)の施策で小作人として農地を耕し

収穫物の50%を政府に納めている人々です。

鄧艾の父は、彼が幼い頃に亡くなり、母一人子一人の母子家庭に暮らします。

つまり、とても貧しく搾取されている貧農の産まれでした。

 

鄧艾は、意思が強く忍耐強い性格でしたが、生まれつき吃音であり、

若い頃から、県の農政官として仕えていたものの、周囲の同僚は、

彼の吃音を嘲笑い、コミュニケーションが取りにくかったので

才能がありながら、なかなか出世する事が出来ませんでした。

 

しかし、上計吏として、洛陽に上った時に上司であった司馬懿(しばい)と面会、

司馬懿は彼の吃音を気にする事なく、その才能の高さを買い、

「君は、県には帰らなくていい、私の属官になり補佐してくれ」と大抜擢。

そこから出世のレールに乗り、農政官として、陳・項以東、寿春までの土地を視察。

土地は肥沃なのに水が少ない事を考慮して運河を敷いて灌漑施設の整備を提案、

「済河論」を書いて運河の建設を訴えました。

 

これは司馬懿によって取り上げられ、淮北・淮南の土地は盛んに屯田されて

肥沃になり、3000万石という莫大な食糧を蓄えられる穀倉地帯になります。

こうして、魏は呉を攻めるのに、わざわざ大軍を南下させる必要がなくなり

後に孫呉を降伏させるのに、決定的な役割を果たす事になります。

以後、鄧艾は、司馬懿について、対蜀戦線に従事し前任の郭淮(かくわい)

補佐として、姜維と対決する事になるのです。

 

姜維VS鄧艾第一ラウンド 麴山の戦い

 

姜維と鄧艾が最初に激突したのは、西暦249年の事でした。

姜維は雍州に侵攻して麴山に両砦を築き句安(こうあん)・李歆(りきん)に守らせ

魏領内に侵攻しますが、それを見ていた雍州刺史の陳泰(ちんたい)

鄧艾(とうがい)は麴山を封鎖しました。

 

退路に不安が出てきた姜維は、急ぎ旋回して麴山救出に向かいますが、

鄧艾は堅く守って持久策に出たので手も足も出ず、さらに郭淮が

洮水から挟撃する構えを見せたので、麴山を救えないまま撤退します。

句安・李歆は、そのまま魏に投降しました。

こうして、第一ラウンドは、鄧艾の勝利で終わったのです。

 

姜維VS鄧艾 第二ラウンド リターンマッチ

 

姜維が退却したのを見て、郭淮は姜維に協力した羌族を追撃に向かいますが

鄧艾は、姜維がまた戻ってくる事を警戒し、一隊を率いて白水に残ります。

狙い通り、郭淮が羌族の討伐に向かうと、姜維は引き返し廖化(りょうか)

白水に派遣、鄧艾の陣の近くに陣を張らせます。

 

この時、鄧艾の軍勢は僅かでしたので、廖化は白水を越えて攻めてくるのが

セオリーでした、ところが廖化は架橋もせず、まるで動かないので、

鄧艾は不審に思い、このように推理しました。

「これは、廖化を囮にし、我々を牽制させ、姜維は北方の洮城を攻め取る気だ」

 

かくして、鄧艾は夜半に密かに軍勢を六十里北に移動させて洮城に入ります。

夜が明けて、城を奇襲した姜維は、鄧艾が軍勢を洮城に移動させた事に驚き

策が敗れた事を知って、渋々退却していきました。

姜維の性格を見抜いた鄧艾により、姜維二連敗を喫します。

 

姜維VS鄧艾 北伐開始 第3ラウンド 狄道の戦い

 

西暦255年、費禕の死去により全軍を握った姜維は、隴西郡に侵攻します。

雍州刺史の王経(おうけい)は迎撃しますが、蜀軍に大敗、数万の兵を失い、

さらに城を包囲されます。

 

それを知った鄧艾は、陳泰と共に迎撃し、姜維は引き上げていきました。

緒戦の王経に勝利したとはいえ、鄧艾相手には退却ですから、これで3連敗です。

 

魏では、これでしばらく姜維の攻撃はないと考え防備を解こうとしますが、

しぶとく執念深い姜維の性格を知っている鄧艾はこれに反対します。

 

鄧艾は、以下の5つの理由で姜維がすぐ戻る事を指摘します。

 

・姜維は大勝し、魏は大敗したので敵の士気は高くこちらは低い

・こちらは訓練度が低いのに姜維は訓練度が高い

・こちらは陸路から来て疲労するが姜維は船で来るので疲労していない

・我々は大軍でも各地に兵を分散するが、姜維は兵力を集中し1点を攻める

・祁山の麦が刈り入れの時期であり姜維は必ずこれを獲りに来る

 

かくして、姜維が戻ってくるのは近いと判断し、備えを怠りませんでした。

 

姜維VS鄧艾 北伐開始 第4ラウンド 段谷の戦い

 

翌年、鄧艾の予想通り、姜維は麦の実る祁山を攻めにきますが、

すでに鄧艾が守りを固めていたので、方向を変えて董亭より南安に進路を取ります。

 

それも予測していた鄧艾は姜維の行路に先回りを行い、

武城山に拠って姜維と対決、姜維は鄧艾と要害の地を争いますが打ち破れません。

そのため、姜維は再び進路を変えて夜半に渭水を渡って東へ向かい、

山に沿って上邽に赴きますが、鄧艾は再び出現、進路を遮断し段谷で迎撃します。

 

しかし、この時に姜維は、逆に鄧艾を欺こうと鎮西大将軍の胡済(こさい)の軍を分離し、

段谷で鄧艾軍の背後を取るよう命じて挟撃を企んでいました。

ところが、胡済の動きも鄧艾に読まれていて、胡済は計画の通りに鄧艾軍の

背後を取る事が出来なかったのです。

 

このため姜維は諦めて退却しますが、鄧艾は、ここぞとばかり猛追撃を行い、

逃げ惑う蜀軍を散々に撃破、蜀軍は4ケタの戦死者を出し潰走します。

またしても、姜維は鄧艾に勝てませんでした、なんと4連敗、、

果たして、姜維は本当に鄧艾のライバルなんでしょうか・・

 

この後、姜維は、257年と262年に北伐を敢行しますが、

いずれも鄧艾に敗れました、これで6連敗という事になります。

 

姜維VS鄧艾  第5ラウンド 剣閣の戦い

 

西暦263年、段谷の戦いの敗戦で、蜀が衰えたと見た司馬昭(しばしょう)

ついに、蜀漢征伐の軍を興し自ら全指揮をとる事になります。

鄧艾は、攻撃軍の司令官として隴右一帯の軍勢を率いて沓中に進み、

そこに駐屯していた姜維と再度対決しました。

 

鄧艾はそこで各軍に命を下し、

・雍州刺史、諸葛緒(しょかつ・ちょ)には姜維の背後を突き退路を断たせ

・天水太守、王頎(おうき)らには直接姜維の軍営を攻めさせ、

・隴西太守、牽弘(けんこう)らには、それより手前で迎撃

・金城太守、楊欣(ようきん)らには甘松に向かわせる

 

として、攻勢に出ました。

 

その頃、鍾会(しょうかい)は別口で十万の軍勢を率いて漢中に軍を進めていました。

鐘会に漢中を抜かれたら蜀漢は滅亡です、姜維はそれを聞くと鍾会を防ぐため

国に帰還しようと鄧艾軍を前に撤退を開始します。

 

それを見た楊欣らは姜維の追撃を行い、彊川口まで追い打ちを続けます。

姜維は、さらに撤退を続けますが、諸葛緒がすでに退路を塞いで橋頭に駐屯していると

聞いたため、孔函谷を迂回して諸葛緒の陣営の背後に出ようとしました。

 

諸葛緒はこれに釣られ、逃がすまいと姜維の迂回を防ぐため三十里ほど後退

しかし、これは姜維の陽動作戦で、諸葛緒の軍が退いたと聞いた姜維は、

手薄になった諸葛緒の軍勢を突き抜けて、橋頭より退却します。

 

諸葛緒は過ちに気付き急いで姜維の退路を遮ろうとしますが僅か一日の差で及ばず

姜維は何とか東へ引き上げ剣閣(けんかく)の守備につき鍾会に備えます。

剣閣は天然の要害に築かれた難攻不落の要塞で、少数でしか攻める事が出来ず、

ここに入られた事で、魏軍は著しく不利になりました。

 

鐘会は諦めて、一度退却して戦線を立て直す事まで考え始めます。

鄧艾も、剣閣を攻めても勝ち目は薄いと判断します。

ここで初めて、姜維、鄧艾から1勝かと思われました・・

 

姜維VS鄧艾  ファイナルラウンド

 

ですが、鄧艾は、蜀漢攻略を諦めてはいませんでした。

何と、剣閣を迂回して、断崖絶壁を降りて、陰平より横道を通って

漢の徳陽亭を経て涪(ふ)へ向かう困難なルートを選択したのです。

 

そこは想像を絶する険しさであり、餓死の危険性さえありましたが、

鄧艾軍は、山に穴を空けて道を通し、谷には橋を架け、毛布にくるまり

崖を転げ降り、岩をよじ登って蟻のように進軍していき、

長い行軍の末、先陣が江油に到着すると、魏軍が剣閣を抜いたと思った

守将の馬邈(ばばく)は、驚いて無抵抗で降伏しました。

 

それを知った、孔明の子で衛将軍の諸葛瞻(しょかつ・せん)は、

涪から緜竹に移動して、鄧艾の先陣を撃破しますが、再度攻めかかった

鄧忠(とうちゅう)・師纂(しさん)は死にモノ狂いで攻めかかり、

諸葛瞻は敗北し戦死、これが蜀軍の最期の抵抗でした。

 

兵力の大半は剣閣にあり、もう鄧艾を迎え撃つ兵力はありません。

成都の劉禅(りゅうぜん)は怖気づいて、玉璽を返還し鄧艾に降伏します。

 

劉禅の降伏を知った姜維は悔しがりますが、どうにもなりません。

成都を守り切れなかった姜維は、とうとう一度も鄧艾に勝てませんでした。

 

姜維が無能ではなく鄧艾が強すぎた

 

こうしてみると、姜維は鄧艾相手に7連敗というスコアであり、

果たしてライバルと言えるのだろうか?という疑問も上がります。

ただ、これは姜維が弱いというより、鄧艾が強すぎたのでしょう。

 

鄧艾の洞察力や機動力を見ていると、孔明と対峙した司馬懿より、

用兵では全然上ではないかと思える程です。

孔明には及ばない姜維ですから、司馬懿に勝りそうな鄧艾に

勝てないのは、仕方が無いでしょう。

 

姜維は、前任の郭淮を欺き、王経を撃破し、諸葛緒を騙し、

鐘会に益州討伐を断念させるなど、鄧艾以外とは良い勝負をしていて、

決して愚将ではなく、鄧艾が北伐に向けられたのが、

ひたすら不運としか言いようがないと思います。

 

 

宿命のライバル?何度も激闘を繰り広げた姜維と鄧艾

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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