ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志・祖先は誰?」のコーナーです。
自分の祖先については誰もが興味を持っているのではないでしょうか。
果たして自分は誰の血を受け継いでいるのか?
昔に祖母から聞いた話だと、私の家は平氏の血統だとか。どうなのでしょうか。
三国志にはたくさんの個性的なキャラが登場しますが、
どんな血統なのかはっきりしない人物も多くいます。
祖先が三公に就任しており、素性がはっきりしている人物もいるのです。
「三国志演義」の主役である劉備はどうなのでしょうか。
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劉備の祖父と父
むしろを売って生計を立てていたとされる蜀漢初代皇帝の劉備(りゅうび)。
三国志の物語が始まった時点では、すでに父親が亡くなっており、
劉備が母親を支えて細々と暮らしていたイメージが強いですね。
そんな中で関羽や張飛と知り合い、
絆を深めていくわけですが、劉備の父は何をしていたのでしょうか。
「三国志正史」によると劉備の父親の劉弘は、劉備が幼い頃に亡くなったようです。
祖父は劉雄という名前で県令を務めたほどでしたが、
その子・劉弘は特に役職には就いていません。
ですから劉備は一般庶民よりも苦しい生活をしていたのではないでしょうか。
高祖・劉邦との関係
劉備といえば、「前漢の景帝の子・中山靖王劉勝の末裔」ということで有名です。
いうなれば劉備は皇族の一員ということになります。
では前漢の初代皇帝である劉邦(りゅうほう)の末裔ということにもなるのでしょうか。
高祖・劉邦は天下を統一した後、力のある臣下を排除していきます。
そして劉邦が没した後は帝位や権力を巡り内紛状態が続き、
5代目皇帝である文帝でようやく落ち着きを取り戻すのです。
文帝は劉邦の子です。この文帝の子が景帝になります。
つまり景帝は劉邦の孫ですね。
劉備がその血筋であるということは、当然のように劉邦の末裔です。
なぜ高祖・劉邦の末裔と名乗らないのか
これは日本でも同じですね。
日本では藤原氏が有名ですが、祖先を辿っていけば皆、藤原鎌足に行きつきます。
それは当たり前のことなので、区別がつかなくなります。
藤原氏はさらに北家や式家に分けられますが、
氏の長者を多数輩出している北家は藤原不比等の次男・藤原房前の末裔です。
北家の中でも藤原師輔の子孫はさらに九条流と呼びますし、
九条流の中でも藤原道長の子孫は御堂流と呼びます。
枝分かれしていく中で、もっとも直近で区別するのが一番素性が伝えやすいですね。
ですから劉備も高祖・劉邦の末裔とは名乗らず、
中山靖王劉勝の末裔という看板を掲げたのでしょう。
景帝には中山靖王劉勝の他に魯恭王劉余もおり、
こちらの末裔が三国志に登場する劉焉や劉表になります。
益州で攻防戦を演じた劉備と劉璋は、景帝の子孫という点までは共通するわけです。
中山靖王劉勝の子や孫
一説によると、劉備の祖先である中山靖王劉勝には50人の子がおり、
孫を含めると120人にも及んだといわれています。
さらにその子孫と考えていくと、
中山靖王劉勝の血筋は三国志の時代には5,000人以上はいたのではないでしょうか。
血筋だけでは到底特別扱いできないような状況ですね。
劉備を皇族だとすると、数万の人たちが「私も皇族です」と言い出すくらいでしょう。
ですから劉備が蜀漢を建国することができたのは、
血筋ということ以上にカリスマ性があったからというのが大きな要因でしょう。
三国志ライターろひもと理穂のまとめ
三国志正史と三国志演義では劉備の性格がやや異なっていますが、
仁君として多くの人に慕われていたことには間違いがないようです。
陳寿は劉備には高祖・劉邦の面影があり、
英雄の器であったと記しています。
ただし、あまりにも劉備ばかりを仁君として正当化し過ぎると、
違和感が生じて眉唾っぽい話になってしまいますので、
ほどほどがいいのではないでしょうか。
なにせ同族の領地を侵略していますからね。
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