ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく「ろひもと理穂の三国志・もしもボックス」のコーナーです。
もしも蜀の二代目皇帝・劉禅が優秀だったら三国志はどうなっていたのだろうか?もしも諸葛亮が無能だったら劉備はどうなっていたのだろうか?いろいろ想像してみるのも三国志の楽しみ方の一つですね。
今回は後漢代12代皇帝にスポットを当てて妄想してみましょう。黄巾の乱が起こった時の皇帝である「霊帝(れいてい)」のことになります。
外戚と宦官
「霊帝の時代の権力者は誰?」と質問されたら皆さんは何と答えますか?
有力な宦官グループ「十常侍」と答える方もいるでしょう。その中でもリーダー格である「張讓」と答える方もいるかもしれません。逆に大将軍である「何進」と答える方もいるのではないでしょうか。こちらは皇帝の外戚になります。
「朝廷が荒廃したのは宦官のせい」というのが一般的な見解になりますが、なぜ宦官はそれだけの力をつけることができたのでしょうか。それは皇帝が外戚に対抗するためです。漢王朝の歴史は、まさに外戚が台頭する時代でした。
これは前漢が滅びる原因ともなっているわけですが(王莽の簒奪)、後漢の時代になってもこの風習はまったく変わっていません。皇帝が権力を取り戻すには・・・とりわけ霊帝のように、桓帝に男子がおらず擁立された傍系の皇帝が政治の中心になるためには宦官の働きが必要だったのです。
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霊帝は官位を売っていた
霊帝の株を下げている要因の一つに「売官」のエピソードがあります。お金を稼ぐために官位を売ったというものです。皇帝自ら賄賂政治を主導していたということになります。霊帝の趣味は蓄財と造園だったからだと伝わっています。そのための費用を稼いでいたのです。
曹操の父親である曹嵩は三公に次ぐ官位である大鴻臚を一億銭で購入しています。ちなみに州刺史の官位が当初は一千万銭だったそうです。さらに曹嵩は宦官にも賄賂を贈り、太尉まで昇進しています。賄賂が横行したことが後漢の衰退につながったのだとすると、霊帝は自分で自分の首を絞めていたことになります。無能と呼ばれても仕方がないのかもしれません。
霊帝は無上将軍を自称していた
184年に黄巾の乱が発生すると朝廷の権威はさらに失墜していきます。首謀者の張角(ちょうかく)はすぐに病没しますが、その後も黄巾の乱は続き、各地では次々と反乱が起きました。188年に霊帝は自らを無上将軍と称し、近衛軍である西園八校尉を設立します。そのメンバーには曹操や袁紹らがいました。
翌年の189年に霊帝は崩御します。死因は何らかの病気によるもののようです。しかし、もしも霊帝が有能だったとしたらどうでしょうか。コナンくんばりに推理力を働かせると、霊帝は朝廷を立て直すために官位を売ってお金を稼ぎ、近衛軍を設立し、そんな霊帝を恐れた宦官や外戚に暗殺されたという可能性も出てきます。
そのためなのか、霊帝は皇太子を定めておらず、後継者争いの火種となりました。外戚・何進の血を引く少帝が即位しますが、やがて朝廷を力で牛耳った董卓によって廃され、献帝が即位することになります。霊帝が生き続け、西園八校尉を率いて治めていたら後漢はどうなっていたのでしょうか。曹操と袁紹は手を取り合って霊帝を支え、外戚も宦官も廃され、董卓の出る幕もなかったかもしれません。こうなると三国志自体が存在しなかったことになりますね。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
霊帝が名君だったのか、無能だったのかは定かではありませんが、霊帝が有能で長命だったとしたら、霊帝の子孫が引き続き後漢を存続させていたことでしょう。そうなると逆に後世、ここまで注目を浴びることはなかったかもしれません。劉備や関羽が世に出てくることもなかったのではないでしょうか。それはそれでやっぱり残念ですね。
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