西郷どんが奄美大島に行った理由は?西郷隆盛の妻・愛加那との出会い

2018年1月16日


 

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西郷隆盛像

 

2018年のNHK大河ドラマは西郷どんこと、西郷隆盛(さいごうたかもり)です。

波乱の人生を送った西郷どんですが、都合5年間離島に流罪になった時期があります。

その中で、3年間を過ごしたのが奄美大島でしたが、では、一体どうして、

西郷どんは、奄美大島に流されていたのでしょうか?

さらに、奄美大島で出会った、島妻、愛加那との出会いについても解説します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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西郷隆盛(西郷どん)が奄美大島にいた理由

西郷隆盛

 

西郷どんは、1854年から、藩主、島津斉彬(しまづなりあきら)

命令を受けて江戸や京都、大阪で政治活動をしていました。

 

その目的は、病弱で子供もいない13代将軍、徳川家定(いえさだ)の

後継者として水戸藩出身で英明の誉れ高い、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を

将軍の後継者に据える事です。

 

井伊直弼

 

しかし、当時の幕府は能力よりも血統を重んじ、

紀州(和歌山)の徳川慶福(よしとみ)を将軍に推す、彦根藩主で

大老(総理大臣)の井伊直弼(いいなおすけ)が権力を握っていました。

 

島津斉彬が亡くなり悲しむ西郷隆盛

 

水戸派と紀州派は激しい政治闘争を繰り広げますが、

1858年には、水戸派の重鎮で西郷どんの後ろ盾、斉彬が急死してしまいます。

追い打ちをかけるように、井伊直弼は、水戸派を一網打尽にする為に

安政の大獄(あんせいのたいごく)を起こし、西郷どんも指名手配リストに加えられます。

 

月照

 

窮地に陥った西郷どんは、同じく指名手配を受けている仲間の

月照(げっしょう)というお坊さんと逃げ出し薩摩まで逃れていきます。

ですが、斉彬亡き後の薩摩藩は幕府を恐れ、西郷どんは兎も角、

月照を匿う事は拒否し国外退去を命じます。

 

月照と西郷隆盛は共に入水自殺

 

絶望した西郷どんは、責任を取る為に月照と共に死ぬことを決意

護送中の船から月照と身を投げますが、月照だけが死に、

西郷どんだけが蘇生してしまったのです。

 

西郷どんだけが助かったことを知った薩摩藩は、これ幸いと、

幕府の追及から西郷どんの身柄を守るために彼を死んだ事にし、

名前を菊池源吾(きくちげんご)と変えさせて、奄美大島に流したのです。

 

そんなわけで、奄美大島に流された直後の西郷どんは、自暴自棄に近く

島の人々ともお互いに警戒心があり打ち解けませんでした。

なので、島に来た当初、西郷どんは友達の大久保一蔵(おおくぼいちぞう)への手紙で、

現状への不満と島の人々の悪口を手紙で書き送っています。

 

ところが、西郷どんは、たまたま、島が役人によって

厳しく搾取されている事を知り、弱い島民を虐める政治に義憤を感じて

島の役人と掛け合いついには、搾取を止めさせることに成功します。

このことから、西郷どんと島の人々は和解して親しくなり、

やがて、西郷どんは奄美大島の北、龍郷村の有力者、龍(りゅう)家の

佐栄志(さえし)の娘、加那を島妻として娶る事になります。

 

西郷隆盛と愛加那が出会う

西郷隆盛と愛加那が出会う

 

愛加那の幼名は於戸間金(おとまがね)といいますが、

於と金は敬称なので、本名はとまでした。

 

通称は金(かな)が転じた加那です、そこで西郷どんは、

さらに愛の一文字を加那に与えて愛加那としました。

 

西郷どんは、薩摩にいた頃に伊集院氏の娘を娶っていましたが、

仕事の多忙と祖父と両親の死が重なり、貧乏の極致にあって、ろくに構ってやれず

結局、伊集院家の申し出で離婚した苦い経験があります。

だから、実質、愛加那は西郷どんにとって初めて夫婦生活を行った妻でした。

 

二人は仲睦まじく、2年の間に長男の菊次郎、長女の菊草(きくくさ)の

一男一女をもうけます。

西郷どんは島の暮らしにも慣れ、龍佐栄志は家族が増えた二人の為に、

新しく家を建てていました。

 

しかし、西郷どんが新居に住む事はありませんでした。

1862年、1月、薩摩藩から迎えの船が来て、西郷どんは島津久光(ひさみつ)の

上洛準備の為に帰還することになったのです。

 

西郷どんは、愛加那の暮らしが立つようにし島の人々に礼を述べて

奄美大島を去っていくのでした。

 

西郷どんは、それから8か月後、久光の逆鱗に触れ、

今度は沖永良部に流罪になる時に、数か月、徳之島にいました。

それを知った愛加那は、西郷どんに会いたい一心で

「自分は罪人だから来てはならない」という西郷の言いつけを破り

兄の手助けで、徳之島に向かいます。

しかし、西郷には、さらに沖永良部への流罪の命令が下り

一日も一緒に過ごせないまま空しく奄美大島へ帰るのでした。

 

その後、西郷は、再び罪を許され、薩摩に戻る途中、奄美大島に立ち寄り

数日間、愛加那と菊次郎と菊草で親子水入らずの日々を過ごします。

これが、愛加那と西郷どんが会った最後でした。

ひたすらに西郷どんと家族を愛した愛加那ですが、

その同居生活は2年程に過ぎなかったのです。

 

 

島津斉彬

 

愛加那との間の子孫 菊次郎と菊草はどうなった?

 

西郷どんと愛加那間に生まれた男子、西郷菊次郎は、

明治に入ると鹿児島の西郷家に迎えられます。

その後、アメリカに留学し、帰国して17歳の時に西南戦争が勃発。

菊次郎は父に付き従い、各地で転戦しますが苦戦の中で右足を負傷し、

右足の膝から下を切断する重傷を負います。

 

崩壊寸前の西郷軍は負傷兵は置き去りにすることに決め

菊次郎も置き去りにされますが、西郷隆盛が、菊次郎につけていた

老僕の永田熊吉(ながたくまきち)に背負われて、

政府軍に降伏して、命を長らえました。

 

罪を許された後は、英語の力を活かして外務省に入り、

アメリカ公使館や本省で勤務し、その後、台湾に転出し、さらに

京都市長などを務め、功業を遂げ67歳で亡くなっています。

 

西郷と愛加那の間に生まれた娘の菊草は、明治8年頃に、

12歳で鹿児島の西郷家に引き取られ菊子と名を改めます。

来たばかりの頃は、菊子は環境の変化のせいか病弱で、

西郷は来客に対応できない程に心配して看病していました。

 

明治9年には、14歳で、西郷家とは従兄弟にあたる、

大山家の大山誠之助(せいのすけ)と婚約します。

しかし、1877年に西南戦争が勃発し、誠之助も西郷軍に従軍、

こちらも、敗れて捕虜になり数年獄中生活を送り、

1880年に、菊草は17歳で30歳になった誠之助と結婚します。

 

ですが、この誠之助は、大山家の問題児であり、

浪費癖があり、多くの借金を造る上に、菊草に暴力を振るいました。

このような事から、夫婦仲は険悪で、ついには離婚し、

晩年には、兄の菊次郎を頼って京都に行き、1910年、47歳で亡くなります。

兄に比べると、苦労が多い大変な人生に思えますね。

 

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西郷隆盛と徳之島

 

西郷どんの流刑地と言うと、奄美大島と沖永良部が有名ですが、

実は、二か月程の間、徳之島で牢獄に入っています。

 

1862年3月、島津久光に許され、久光上洛の先遣隊として、

京都に向かう西郷どんですが、久光は下関で自分を待つように厳命しました。

しかし、久光が幕府寄りの立場とは知らない尊攘派の志士達は、

久光の上洛に合わせて、これを担いで幕府を倒すと息巻いて暴発寸前です。

 

これは危険だと感じた西郷どんは、命令を無視して下関を出発し

大阪や伏見で尊攘派の押さえにかかりますが、

誰にも相談できないスタンドプレーだったので、逆に尊攘派と

共同して騒動を起こそうとしていると久光に誤解されました。

 

激怒した久光は西郷どんを逮捕し、薩摩に強制送還して、

船で徳之島に送ってしまいました。

大人しく入牢していた西郷どんですが、久光は

「徳之島ごときでは懲罰にならん!」

さらに沖永良部まで飛ばすように命令を下したのです。

こうして、西郷どんは薩摩藩の領地の最果てに流罪となりました。

 

西郷隆盛と奄美大島の関係性を執筆したkawausoの独り言

kawausoの独り言

 

奄美大島での3年間は激動の西郷どんの人生では、例外的に長閑な時間でした。

夫婦仲もよく、島の人々とも打ち解けた西郷どんは、このままお呼びがないなら

龍家の婿として、島に骨を埋めようとも思っていたそうです。

人情豊かな島の人々と雄大な自然は、主を失い同志月照を死なせた傷心の

西郷どんの心を癒していたのですね。

 

現在でも、奄美大島の人々は、西郷どんを追慕する気持ちが強く、

島の恩人として、その記憶を継承し続けています。

 

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西郷どん

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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